舞台『東京輪舞』感想&考察

髙木雄也さんと清水くるみさんが出演する舞台『東京輪舞』の感想と考察です。

応援しているアイドルの出演舞台に関するブログを書くのはこれで2回目です。前回も二人芝居でした。わたしって二人芝居が好きみたい。

観劇前に読んだもの

アルトゥル・シュニッツラー『輪舞』

1900年にオーストリアの劇作家シュニッツラーが発表した戯曲です。私は1987年に岩波文庫から刊行された中村政雄訳本と、1997年に現代思潮新社から刊行された岩淵達治訳本の2バージョンを読みました。中村政雄訳版は昔の言葉で書かれていることもあり、話の内容は理解できたものの、登場人物の会話の情感はあまり掴めませんでした。その後岩淵達治訳版を読み、こちらは今の話し言葉に近い文体で書かれていることもあって、登場人物の心情や会話の空気感をより深く感じ取れたように思います。

10組の男女の情事の前後のやり取りが描かれていますが、情事の最中の描写は一切なく、その間を表す中断のト書きが入っています。当時のウィーンでは上演を巡って法廷論争が起こるほどセンセーショナルな内容だった、という前情報だけは入れていましたが、読んでみて個人的には「上演中止にするほどかな?」というのが率直な感想。確かに屋外での行為や不倫なんかが描かれてはいるけれど、普通にありそうじゃない?と。でもこれはきっと現代を生きている私が読むからそう思うのであって、当時のウィーン社会の価値観から考えると、とんでもない内容だったのでしょう。

デヴィッド・ヘアー『ブルールーム(The Blue Room)』

イングランドの劇作家ヘアーがシュニッツラーの『輪舞』を翻案し、1998年に発表した戯曲です。『輪舞』の大筋を残した形で、舞台となる時代・場所や登場人物の設定を当時の大都市(明記はされていないがロンドンやニューヨークを想起させる場所)に移しています。こちらは英語の原文で読みました。この作品には「A play in ten intimate acts」という副題がついています。この「Intimate act」という表現がなんだか良いな、と思っています。個人的には日本語に訳された『輪舞』よりも、英文で読んだ『ブルールーム』の方が読みやすく、内容や会話の空気感もすんなり入ってきました。20世紀初頭のウィーンよりも、1980、90年代のロンドンやニューヨークの方が文化的に身近に感じたからだと思います。

『ブルールーム』では行為中の中断を表すト書きに追加して、その情事の「所要時間」を表すテロップが投影される、というト書きがあります。「THREE MINUTES(3分)」「TWO HOURS TWENTY-EIGHT MINUTES(2時間28分)」といった形で。直接的な描写がなくてもそれがどんな情事だったか想像させることができる面白い演出ですし、『東京輪舞』にも、もしかするとここから着想を得たのかな、という演出が盛り込まれています。

現代の東京版『輪舞』

『ブルールーム』がかなり面白かったので、現代の東京を舞台にした『東京輪舞』はどんな作品になるんだろう!ととてもワクワクしていました。初日に観劇してまず思ったのは「脚本が上手すぎる」ということ。原作をそのまま現代の東京に置き換えて日本語化しているわけでは全くなく、ポイントとなるキャラクター設定、会話の構成やエッセンスなどをうまく踏襲しながら、オリジナルの要素や設定をふんだんに盛り込んでいます。

そして、各登場人物の描かれ方にものすごく深みがある。オムニバス形式なので各人物の登場時間は限られているなかで、発する言葉や行動から、その人の性格、価値観、バックグラウンドみたいなものをとても濃く感じることができます。

髙木くんが8役、くるみさんが6役を演じているんですが、お二人の芝居もとにかくすごい。役が変わるたびに、佇まいも、声も話し方も、顔つきまでも別人のようになって出てくるので、同じ人が演じているということを忘れてしまいそうになることもしばしば。

音楽や美術も現代的でスタイリッシュで、作品の世界観を見事に作り上げています。各景の間の転換の様子、その中で登場人物が着替えて次の相手との場面に移っていく様子も作品の一部として見せる演出もとてもユニークで、それを表現するステージパフォーマーの方々も素晴らしく、見るたびに新しい発見や面白さがあります。

各景のあらすじ・感想・考察

第一景「十代と配達員」

「十代」サノ マカナ。18歳。

「配達員」カイト。デリバリーアプリの配達員。

場面:「新宿、冬

『輪舞』では娼婦と兵卒、『ブルールーム』では女の子(Girl)とタクシードライバー(Cab Driver)の話として描かれている第一景。両作品とも若い女性が通りがかった男性に声をかけるところから始まります。女性が男性に誘いをかけ、屋外で人目を盗んでセックスをする。その「代金」を求める女性を置いて、男性は逃げるように去っていく、という構成も3作品で共通しています。

この景は比較的短めではありますが、作品全体のイントロダクションとして、舞台となる「現代の東京」という場所の一面を分かりやすく表していると思います。

10人の登場人物の関係性をリレー形式で描いていく、その起点となるのがマカナです。生活に困窮しており、新宿の街で偶然出会った誰かとセックスをして、その対価を得る。

この景の中では明らかにされていませんが、この先の話を見ていくとマナカが所謂「身体を売る」生活を始めたのは、このカイトとの出会いがあった頃であったことが推察できます。その一人目がカイトだったのか、別の誰かだったのかは分かりませんが、少なくともマカナがこの頃、そうした生活を始めなければならないほど「必死」な状況であったことは確かです。作中にはこんな台詞も。

「必死だよ!明日も生きていられる保証なんてないんだから」

『東京輪舞』は全体を通して、若干の例外はありつつ、物語が進んでいくにつれて登場する人物の「社会的階層」が上がっていくような構成になっています。これは『輪舞』『ブルールーム』でも同様です。その一番最初に登場するマカナは、東京という街で誰もが陥る可能性のある「貧困と孤独」を象徴する存在にも思えます。

街中にあるトイレで「サクッと」しよう、と誘うマカナに「ケモノじゃん」と返すカイトですが、最終的にはマカナの誘いに応じます。カイトがマカナにキスをすると「これでお兄さんもケモノだ」と言うマカナ。彼女はお金と欲望のためだけではなく、孤独を埋めたくて誰かとの出会いを求めていたのかもしれません。

情事のタイトルは「交尾する」。「ケモノ」になった二人、を表現しているのでしょうか。

第二景「配達員と家事代行」

「配達員」カイト

「家事代行」ジャスミン。25歳。フィリピン出身。日本で家事代行の仕事をしている。

場面:「渋谷、春

『輪舞』では女中、『ブルールーム』ではオペア(Au Pair)として描かれている三人目の登場人物。オペアとは海外のホームステイ先に無償で住ませてもらう代わりに、その家の家事や子供の保育をする人のことを言います。日本では聞き馴染みのない制度だし、『東京輪舞』ではどう置き換えるんだろう?と気になっていたので「家事代行」だと分かった時は「なるほど!」と思いました。原作の構成を踏襲した上で、現代の東京でも全く違和感のないキャラクター設定になっています。

渋谷のクラブで出会う2人。カイトがジャスミンをナンパして、そのまま2人はラブホテルへ行きます。

この作品は構成上、基本的に全ての登場人物が2つの連続する場面でそれぞれ別の相手と関係する形になっています。シュニッツラーが『輪舞』を書いた当時のオーストリアの道徳観に鑑みると非常にセンセーショナルな描写だったのでしょう。しかし現代の東京に舞台を移すと、こういうことも普通にあり得るよね、と感じる内容にも思えます。作品の背景にある性や恋愛の価値観について考えながら見るのもおもしろいです。

ラブホテルでの情事のタイトルは「セックスをする」。その少し前のクラブでの場面では「セックスをする?」というテロップが出ます。情事の前後を描く作品というだけあって、事に及ぶまでの2人の駆け引きや、事後の会話も非常にリアル。

各景の間の場面転換で毎回違う音楽が流れるんですが、二景と三景の間の音楽が私のお気に入りです。カイトの置いていった指輪をまじまじと見つめているジャスミンの、ささやかな恋の気持ちを表現しているような高揚感のあるメロディーが素敵。(だからこそ余計にこの後の場面がつらくなるわけですが...)

第三景「家事代行と息子」

「家事代行」ジャスミン

「息子」マサ。大学院生。22歳。

場面:「成城、夏

『輪舞』では女中と若様、『ブルールーム』ではオペア(Au Pair)と学生(Student)として描かれている3景。裕福な家の息子と、その家で仕事に従事する女性、という関係性は三作品に共通しています。

個人的には、この景の話がいちばんつらいというか、見ていて胃がキリキリしてしまいます。

マサの住む家で家事代行の仕事をしているジャスミン。休憩中にマサが帰宅し、ジャスミンにマッサージをしてほしいと頼みます。マッサージ中、突然「エッチしてみない?」と誘うマサ。それを拒むジャスミンに対して、マサはジャスミンの「ある秘密」を知っている、と話し、2人は最終的に事に及びます。

この景ではセックスにおける「力関係」が如実に描かれています。マサはジャスミンを「雇う」側(正確には雇っているのはマサの親だけど)であり、ジャスミンは「雇われる」側の存在。その時点でまず圧倒的な上下関係が生まれています。その上マサは、ジャスミンが誰にも知られたくない「秘密」を知っている。言葉の上ではマサが誘っている形になっているけれど、ジャスミンにとってこれは「断れない」「応じざるを得ない」状況なのです。作品の本筋からは離れてしまいますがこの場を借りて一つだけ言わせて欲しい。立場の強さ/弱さを利用して相手が望まない行為を強いるのって、暴力だからね。お芝居はフィクションだけれど、現実世界では絶対にしてはいけない事です。でも実際には、こういうことって、現実でも起こり得るし、たぶん起きている。3景は正直見ていてつらいですが、問題提起として、反面教師としては描く必要のある話だと思います。見ている側の心がヒリヒリしてしまうような、2人の間の張り詰めた空気感のあるお芝居が素晴らしいです。

情事のタイトルは「手でする される」「口でする される」。作品の中でもいちばん生々しい表現が使われているのが、なんともしんどい。

第四景「息子と作家」

「息子」マサ

「作家」ショウジ サヨ。27歳。作家。エッセイスト。

場面:「数十分後

『輪舞』『ブルールーム』では、この場面に登場する女性は「若い人妻(Married Woman)」として描かれており、おそらくどちらも仕事はしていません。しかし『東京輪舞』のサヨは原作とは異なり、人気作家という職業も教養もステータスもある女性として描かれています。『輪舞』の舞台となった時代と比較して女性の社会進出が進んでいる現代の東京らしい設定になっています。

マサの通う大学院のゼミの講師としてサヨが登壇し、出会った2人。その後恋愛関係になり、マサはサヨを自宅へ誘います。場面のテロップに出る通り、これは第三景のジャスミンとマサの出来事があった数十分後のこと。第三景の2人の情事中に鳴ったインターホンは、おそらく約束していた時間よりも早く来たサヨによるもの。それでマサはあれだけ慌てていたのでしょう。

つまりマサはこの後サヨが家にやってきて、セックスする可能性もある(というかその下心で誘ってるに決まってるよね)と分かっている状態で、ジャスミンにあんなことをしたわけです。サイテー!ここで観客(というか私)の中でのマサの好感度がさらに下がります。

3景とは打って変わって、この景では女性であるサヨが関係性の主導権を握っています。セックスのリードをするのもサヨ。くるみさんがインタビューの中で「女性のお客様も誘惑できるように、好感が持てる色気にしたい」とおっしゃっていましたが、その言葉の通り、見ている方がドキドキしてしまうような挑発的で色っぽい女性になっています。

場面としても、この景がいちばん「リアルとエロス」のエロスの要素を感じられる気がします。あけすけな会話がいちばん多いのもこの景かな。

途中のサヨの台詞が印象に残っています。

「そしたら私は絶対にさみしくなって(中略)振り回されて、泣かされて、まるでなんか、自分が主体性を持っていない女であるかのような気持ちにさせられて、つまらない、すごくすごくつまらない、自分でもそのつまらなさに蓋をして、見なかったことにして、また誰かに依存して、つまらなさを上塗りして、傷つけて、傷つけられて、またただ終わる」

自立した女性であり、自分に自信を持っているであろうサヨが、恋をして誰かに執着してまうこと、それによって女性としての主体性を失ってしまうことを恐れていることが感じられて、確かに、そんな気持ちになること、なったことがあるかも、と共感してしまう台詞です。

第四景を通して、マサは盲目的にサヨに恋しているようにも見えますが、サヨが帰った後の「独り言」を聞くと少し見え方が変わってきます。

「あの"ショウジ サヨ"だぞ...!」

この終わり方は原作と似ていて、『輪舞』では若様の「これで僕は上流の人妻と関係を持ったんだ」、そして『ブルールーム』では学生の「I'm fucking a married woman (意訳:人妻をモノにしたぜ)」と言う独り言で終わります。

おそらくこの三作品に登場する若い男たちの動機は共通しています。それは「本来自分の手の届かないような女性と関係を持つこと」。もちろん恋心があったうえで、ですが、マサの気持ちの根底には自分よりも社会的地位の高い(その上人妻でもある)サヨと関係を持っている、という男としての「勲章」が欲しい、そんな野心めいたものが隠れているようにも思えます。

第五景「作家と夫」

「作家」ショウジ サヨ

「夫」ヤマナカ タツヒコ(たっちゃん)。サヨの夫。建築家。

場面:「三鷹、秋

『輪舞』では若い人妻と夫、『ブルールーム』では政治家(Politician)と人妻(Married Woman)の話となっている5景。この二作品の中では夫婦の間に子供がいますが『東京輪舞』のサヨとタツヒコの間には子供がいない、という点が大きな違いになっています。子供を持たず、ぞれぞれ自分のキャリアに専念する夫婦、という設定も現代の東京らしさを感じます。

仕事の手が進まず「サヨに会いたくなった」と言って寝室にやってくるタツヒコ。シャンパンを飲みながら、2人は自分たちの関係性や、愛と性欲について、将来についてなど様々な話をします。台詞量の多い作品ですが、この景は特に、ずーーーっと喋ってる。しかもサヨもタツヒコも、使う言葉がなんだか高尚なんですよね。学歴も、教養も、キャリアもあるんだろうなというのが言葉のチョイスからも伝わってくる。サヨがタツヒコを論破しているシーンを見ると、さすが「言葉」を仕事にしている作家だな、と思います。

「愛と性欲」について話す中で、タツヒコは「身体を売っている人たち」について言及します。貧しい家庭に生まれて、親から十分な愛を受けられなかった子供は、それを代理の存在に求めたり、性欲が歪んでしまう、と。そういう経済的な貧困や道徳的な貧困が、彼らをそういう「ひどい仕事」に就かせる、と。見ている側としては、どことなく1景のマカナの存在を思い出す発言です。それに対してサヨは「身体を売っていても立派な仕事だと思う」と反論し、タツヒコは自分の発言が職業差別的だったと認めて謝罪します。こうした会話を真剣にしているところも、この夫婦のキャラクター、価値観を表しているように思います。

私が特に好きなのは、タツヒコがサヨに謝った後のシーン:

タツヒコ(両手を挙げて)「殺して?」

サヨ「バーン」(拳銃を撃つジェスチャー

差別的な発言をしてしまったことへの「罰」として撃たれる、という冗談めかしたシーン。もしかすると二人の間のお決まりのやり取りなのかな、と思っています。おそらくタツヒコの不用意な言動ををサヨが指摘するのはよくあることで、その度にタツヒコが非を認めて、反省の証として「バーン」と撃たれる。「間違いを指摘する/される」という気詰まりなコミュニケーションを、少しでもポジティブに終わらせるための工夫みたいな。

このやり取りもそうですが、サヨとタツヒコの会話はその話し方からも2人が夫婦であることが感じられるのが良いな、と思います。それぞれが登場するもう一つの景と比較した時、5景には生活を共にしている、気を許した相手との会話のリズム感みたいなものがある。この辺りを繊細に表現している脚本がすごいし、それを見事に演じている俳優お2人もすごい。

5景では「子供を持つこと」に関するサヨの台詞が印象に残っています。

「私は全エネルギー使っちゃう気がするんだよね。子供に。使っちゃうと思う。でも、そうなったとき私は、私が本来なりたかった作家になれてるのかな。母親になってしまう私を、作家の私は許せるのかな」

出産・育児と仕事を両立できるのか、それともどちらかを選ぶしかないのか。現代の女性の多くが共感できるであろう葛藤が表現されているように思います。一方のタツヒコが「そうなったら、そうすれば良いと思うよ」「今はまだ分かんないけど」とどこか他人事のような反応である点にも、男女間の感覚の差が感じられる場面です。

この景でもう一つ好きなところは、性的同意がきちんと描かれているところです。

サヨ「ねえ、しようよ」

タツヒコ「うん、しよう。したいと思ってた」

サヨ「思ってたと思ってた」

情事に付けられたタイトルは「愛する」。全十景のなかでこの二人にこの動詞が当てはめられたことの意味について考えたくなります。

第六景「夫とクィア

「夫」ヤマナカ タツヒコ

クィアワタヌキ マキ。コンテンポラリーダンサー。

場面:「品川、冬

『輪舞』ではかわい娘ちゃん、『ブルールーム』ではモデル(Model)として描かれている7人目の人物は『東京輪舞』ではコンテンポラリーダンサーという設定で登場します。

タツヒコが偶然マキのダンスを見たことをきっかけに知り合った2人は、ホテルのスイートルームでドラッグに興じます。

『東京輪舞』全体の構成として、第五景まではいわゆる「ヘテロセクシャル」な関係性を描いていましたが、第六景からそれが変わり始めます。ここからどんどん原作と異なる要素が広がっていきます。そのきっかけとなるのがマキという人物です。

マキは一見すると女性のように見える格好をしていますが、会話を通して規範的な性自認性的指向にとらわれないクィア(おそらく身体的性は男)であることが明らかになります。そんなマキと出会い、関係を持ったことで、自身もヘテロセクシャル男性ではなく「クエスチョニング」なのではないかと気づいたタツヒコ。ではこの景は性的マイノリティ同士の関係性を描いているのかというと、そうとは言い切れないような気がしています。

タツヒコはこれまでシスジェンダーヘテロセクシャルな男性であることに何の疑問も持たずに生きてこれた人。女性のパートナーと法的な婚姻関係を持ち、建築家として社会的なステータスも十分にあります。一方のマキは、おそらくずっと前からクィアとして生きてきて、それによって奇異な目で見られたり、心無い言動で傷つけられたこともあったはず。

タツヒコの発言にも、マキをどこかで「奇異な存在」として見ているようなニュアンスが滲んでいます。それをマキは敏感に感じ取っている。だから一緒にクスリをやってハイになってはいるものの、マキはタツヒコに対してどこか冷めたような態度に戻る瞬間が何度かあります。「ああ、この人もか」と思っているような。

 

最後のやり取りは、ちょっと皮肉が効いている。

タツヒコ「もう無理?もう嫌だ?」

マキ「その質問にはさ... "行動"で返すしかないよ」

タツヒコ「"言葉"じゃないってこと?」

マキ「そう」

言葉を仕事道具にし、言葉を尽くしてコミュニケーションを取るサヨの存在に対する含みを感じる台詞です。

情事のタイトルは「性交する」。五景のサヨとタツヒコの情事が愛のためのものだったとするのなら、タツヒコとマキの情事は刺激と快楽のためのもの。

足元をふらつかせながら一緒にベッドへ向かう2人。マキが「このまま踊ろうよ」と言い、2人でワルツのようなステップを踏みながら消えていくシーンで第一幕が終わります。作品のタイトルにも入っている「輪舞」を想起させる粋な演出ですね。

第七景「クィアインフルエンサー

クィアワタヌキ マキ

インフルエンサーオトナ(音菜)。「ちゃむ」という名前で活動している歌い手。

場面:「八王子、クリスマス

初日に観劇してからずっと、全十景の中でこの景が私はいちばん好きです。

マッチングアプリで出会った2人。クリスマスの日、オトナの配信部屋へマキが訪れます。自分のことを知らないと話すマキに驚くオトナ。そこからちょっとしたケンカのようなやり取りもありつつ、お互いの表現を通して2人は理解し合っていきます。

物語の序盤、オトナがマキに勝手に抱きついて「はいダメ、はいダメ、アウトー」と言われ、慌てて謝るシーンがあります。もしかすると2人の間には、同意を得ずに相手の身体に触れない、というお互いの「バウンダリー(境界線)」を尊重するための約束事のようなものが事前にあったのではないかな、と思っています。

その後「する?」「しよっか」と言って服を脱ぐ2人。けれどそこで2人は最終的に「セックスをしない」という選択をします。

「わたしたち、しない方がいいね。うん。違う。違うと思ってたけど、似過ぎてる。わたしたちは。だから、する意味がない。セックスって、違うからするんだね」

「セックスをしない」ということも一つの情事として描いているところが、私はとても好きです。この次の景でオトナはマキのことを、恋人ではないけれど「大切な人」と言っています。恋愛じゃなくても、しなくても、「大切な人」と呼べる関係性になれることをこのシーンは伝えているのかなと思っています。

最後に「ハッピーホリデイズ」と言い合ってハグをする2人。このハグも、決して強く抱きしめ合うようなものではなくて、そっと相手の身体に触れるような優しさが滲み出ていて、観るたびに泣きそうになってしまいます。

脱いだ服を着直すタイミングで役が入れ替わる、という演出は、初日に見た時に鳥肌が立ちました。この仕掛けがこれ以降の場面にも作用してきます。考えた人、天才すぎる。

第八景「インフルエンサーと俳優」

インフルエンサーオトナ/オト

「俳優」フクモト ジン。俳優。

場面:「東京の近く、1月」(『東京輪舞』だから、あえて地名を明言せずに東京から見た「近く」と表現しているのかな)

『輪舞』では男性の詩人と女優、『ブルールーム』では男性の劇作家(Playwright)と女優(Actress)を描いている八景。『東京輪舞』では前段で「役を入れ替える」という仕掛けがあったことにより、原作では女優だった人物が俳優として描かれています。

ジンが主役を演じる『マクベス』の地方公演終わり。公演を観にきていたオトはジンの泊まるホテルの部屋へ行きたいと言い、2人の逢引きが始まります。

オトもジンも性自認は男性。オトの性的指向は明言されていませんが、男性が恋愛対象に含まれているのは確か。一方のジンは、自身が「ポリアモリー」であると認識しています。ポリアモリーは「複数愛」とも訳され、パートナーの合意の上で複数の人と恋愛関係を持つ人のことを指します。(この「合意の上で」がポイントだと後々分かります。)

俳優であるジンは、自身がポリアモリーであることを世間に公表していません。奥さんのいる身でありながら、他の人とも付き合っている(しかもそれがフォロワー100万越えの有名配信者)なんて知られたら「俺のファンは減るだろうな」と言っています。まだまだ社会にはポリアモリーという言葉・考え方を知らない人も多い現在。自分のアイデンティティを受け入れてもらえないかもしれない、というジンの苦悩が、こういった台詞からも感じられます。

ジンという人のアイデンティティを表すもう一つの要素が「信仰」です。ジンの左腕には、聖母マリアと思われる肖像のタトゥーが彫られており、何かを誓うとき、ジンはそのタトゥーに触れる仕草をします。作中にはお祈りをしているシーンもあります。「日本人は無宗教」という意見もある中で、信仰や祈りを日常の一部として描いている点に私は好感を持っています。

情事のタイトルは「関係を持つ」。この景のこの2人だけを切り取って見ていると、お互いへの「好き」の気持ちが純粋に伝わってくる、甘酸っぱい恋愛模様のようにも見えます。世間には知られてはいけない、内緒の恋。でもジンにはそれを「伝えなければならない人」がいる。そういった2人を取り巻く状況を俯瞰してみると、この景もなんだか切なく感じます。

第九景「俳優と社長」

「俳優」フクモト ジン

「社長」ショウコ。ジンの妻であり、ジンの所属する会社の社長。

場面:「数日後

『輪舞』では女優と伯爵、『ブルールーム』では女優(Actress)と貴族(Aristrocrat)が登場する9景。『東京輪舞』では性別が原作と入れ替わっており、男性の俳優と女性の社長のやり取りを描いています。もう一点、原作と大きく異なるのは、2人が夫婦であり、子供がいるということ。

1景のパートでも触れましたが、この作品は物語が進んでいくにつれて登場する人物の「社会的階層」が上がっていくような構成になっています。10人の主要な登場人物の中で最後に登場するのがショウコ。社長という肩書きが経済的にも社会的にもステータスのある存在であることを示しています。そんな役柄を男性ではなく女性として描いているところも印象的です。

マクベス千穐楽公演の翌朝。接待帰りで二日酔いのショウコがジンのもとを訪れます。

ショウコはどうやら、酔っ払うと記憶を無くしたり、謎のキャラクターが入ってしまうタイプ。この場面でも「奥様と使用人」という謎の設定で寝起きのジンを困らせます。一見コミカルな序盤のやり取りですが、私にはショウコが強がって道化を演じている部分があるようにも感じられます。妻として、それ以上にビジネスパートナーとして、人気俳優であるジンを支えていかなければならない。そんな強い女性でいなければならない自分を守るための鎧として、あんな風におどけた態度をとったりしているのかな、と。

ポリアモリーであるジンは、好きな人ができた時はそれをショウコに伝える、という約束をしています。あくまでも、パートナーの合意の上で複数の人と恋愛をする、という考え方だからです。

「好きな人ができた」と打ち明けるジンに対して、ショウコは感情を爆発させます。息子にはどう伝えるのか、もしも世間に公表したとき、ジンに関わる多くの人に影響が及ぶことを考えているのか、と。そしてこう言います。

「私はモノガミーなの。分からないの、ジンくんの感覚が。でも分かろうとしてるから...分かろうとしてることだけは分かって」

分からない、でも一緒に生きていくために、分かりたい。ショウコの悲痛な思いと、ジンの抱える苦悩の両方が伝わってきて胸が苦しくなります。

終盤、ジンがショウコをぎゅっと抱きしめた状態での2人の会話にも心を揺さぶられます。

「きっと日本中にキモがられる」「うん」

「差別もされる」「うん」

「迫害もされる」「うん」

「もしかしたら殺されるかも」「...うん」

「それでも私のこと大事にできるの?」「そう誓った」

「自分のことも大事にできる?」「うん」

「ユウトのことも?」「うん」

「"その人"のことも?」「うん」

声を震わせながら「”その人”」と言うショウコの気持ちを思うと見ているほうも泣けてくる。

情事のタイトルは「一緒に寝る」。窓から差し込む陽の光に照らされたラストの2人の姿が、本当に切なくて、でも本当に綺麗。

第十景「社長と十代」

「社長」ショウコ

「十代」サノ マカナ。19歳

場面:「新宿、春

10人目の人物が、最後に1人目で出てきた人物と関係して「輪」が成立する、と言うことは原作を読んで想像していた初日。7景で役が入れ替わったことでくるみさんが10人目のショウコを演じる形になった時に「あれ、これ次に出てくるマカナはどうなるの?」と1人で混乱していたところで10景が始まって「やられた...」と思いました。1人5役から増えたのはこういうことか、と。

目が覚めると何故かマカナの自宅で一緒に布団に入っているショウコ。酔った勢いでマカナと寝てしまったことに気づき、お金を置いて帰ろうとしたショウコをマカナが引き留め、2人の会話が続きます。

個人的に、10景は自分の中のアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)に気付かされる場面でした。おそらく20以上は年の離れているであろう女性同士がワンナイトの性的関係になる、というのが、どうしても想像できなかったのです。「わたし、あなたと寝たの?」「寝たよ」という会話がなければ、まあ酔っ払って泊めてもらっただけだろう、と当然の如く思ってしまっていたと思います。ここで私が自分に対してショックだったのは、この2人が女性ではなく男性だったら、もっとすんなりこの展開を受け入れていただろう、ということです。私の中には、男性同士の性愛と女性同士の性愛は異なる、という無意識の思い込みがあったんだ、と。

会話の中で、ショウコは終始マカナのことを心配していることが分かります。「嫌じゃなかった?わたしで」「いつからこうやってお金稼いでいるの?」「こんなやり方じゃなくても、絶対に幸せになれるよ、あなたみたいな人は」。名刺を渡した時も「何かあったら電話して。助けが必要な時とか」と言うショウコ。マカナの孤独や苦しさを感じる1景から始まった物語で、最後にこうして彼女を気遣い、手を差し伸べようとする大人の存在が描かれていることに、私は少し救いを感じています。(かくいうショウコもマカナのことを買ってしまってはいるのであれですが...)

去り際のショウコに「私のどこが好き?」と聞くマカナ。カイトと出会ったあの冬から1年とちょっとの間、彼女はずっと、人から肯定され、必要とされること望んで生きてきたのかもしれません。

カイトが「じゃあね、”ご褒美”さん」と言ってマカナのもとを去る1景から始まった物語。最後はショウコが「ありがとう、”贈り物”さん」とマカナに伝えて帰っていく10景で締め括られる、その構成がとても美しいです。年齢も生きる世界も全く違う2人が、巡り巡って出会うことになる様はまさに「輪舞」のようです。

最後のシーンについて

第十景の最後に11人目の登場人物が出てくるのは『輪舞』『ブルールーム』にはなかった『東京輪舞』オリジナルのエンディングです。マカナの家を出たショウコが、工事現場の作業員と短いやり取りをし、そのまま2人は離れていく... という場面でこの作品は終わります。

原作にはないこのシーンと11人目の人物が追加された意味については、ずっと解釈が難しいなと思っていました。何回か観る中で少しずつ自分なりの考えがまとまってきたので記しておきます。

第十景はショウコとマカナの物語だったので、これまでのリレー形式の流れのままいけば、この次の第十一景がもしあるとするならば、それは再びマカナ(と誰か)の物語に戻ってきてしまいます。「輪」のようにつながる「輪舞」としてはもちろんそれでも良いのかもしれない。けれどそこに11人目の人物を登場させることによって、ここからまた別の「輪」ができて、新しい「輪舞」が始まる、そんな可能性をこのシーンは示しているのかなと思っています。

第十景に、マカナのこんな台詞があります。

「その時、たまたま、そこにいる、その人と、好きなように生きていく」

この言葉を聞いたショウコが、その後の何気ない誰かとの出会いに、何かを思いながら、日常に戻っていく。東京という街で。その先の未来につながる希望を感じさせるエンディングだと感じています。

男女二元論とヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範)

『東京輪舞』が『輪舞』や『ブルールーム』と異なる重要な点は、様々なジェンダー性的指向の人物が登場することです。演出の杉原さんがインタビューやパンフレットでお話しされていた「男女二元論の話にはしたくない」という思いがしっかりと反映されていることが分かります。男女二元論は読んで字の如く、人間は男か女のいずれかに分類される、という考え方です。加えて、この作品はヘテロノーマティヴィティ(Heteronormativity・異性愛規範)にも疑問を投げかける内容になっています。ヘテロノーマティヴィティとは、異性愛を「普通」で「自然」なものとし、同性愛などそれ以外の性的指向を「特殊」で「不自然」なものとする考え方のことです。多様な性のあり方については徐々に理解が広がっているとはいえ、依然として私たちが目にする多くのメディアで描かれているのは男と女という異性間の恋愛やセックスです。

だからこそ『東京輪舞』が男女二元論、異性愛規範にとらわれない性のあり方を描いていることには、非常に重要な意味があると思います。『輪舞』の時代のオーストリアにも『ブルールーム』の時代のイングランドにも、様々なセクシュアリティの人々がいたはずです。でも描かれなかった。もしかすると描けなかったのかもしれない。そんな人々の存在が、現代の東京に舞台を移したこの作品で可視化されていることは、社会が少しずつではあるけれど、多様な性のあり方、生き方を尊重しようという方向に向かっている、そんな希望であるようにも思うのです。

また、性愛・恋愛だけが人間同士の深い結びつきではない、というメッセージもこの作品からは受け取ることができます。登場する2人の間に性的な出来事があったのかどうか明確にされていない景もありますし、はっきりと「セックスをしない」という選択をして、恋愛ではない特別な関係性を築いている人たちも描かれています。色々な生き方、選択を肯定する作品になっているところがとても好きです。

リンクする物語

10組のペアの、それぞれ場所も時間軸も異なる物語の中にリンクする要素があるのも、この作品の魅力の一つです。9景のジンとショウコの会話の中で、5景のサヨとタツヒコの「その後」のことが分かったり、10景のマカナと2景のジャスミンの繋がりだったり。複数の場面で繰り返し出てくるキーワード・モチーフのようなものもあります。一つ目は「純粋」。5景で「純粋さ」について話すサヨとタツヒコ。9景に出てくる百合の花言葉は「純粋」。そして10景でマカナの「とても純粋なところ」が好き、と伝えるショウコ。もう一つが「宇宙」。異常気象の地球から宇宙へ乗り換えるしかないとマサが話す3景。天文学的な愛について語る4景のマサとサヨ。そしていろんな意味で宇宙に行ってしまっている?宇宙になっている?6景のタツヒコとマキ。そういった別々の場面に散りばめられた要素を見つけるのも、オムニバス形式の作品ならではの楽しみ方だと思います。

まとめ

「リアルとエロス」というテーマを掲げている『東京輪舞』。しかし実際に見てみると、エロスというよりももっと普遍的な「人と人との関係性」を描いているように思います。性別、ジェンダー性的指向、国籍、職業、世代など異なるアイデンティティを持つ10人の登場人物。それぞれが何かしらの「生きづらさ」を抱えながら、誰かを愛したり、求めたり、大切に思ったり、恋したりしながら、生きている。見ている方も、自分の体験を重ねたり、「誰か」を思い出したり、場合によっては「全く共感できないな」と思ったりしながら、最後にはきっと誰かと話したくなる、そんな作品だと思います。本当に見て良かった。この作品が好き。それに尽きる。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。『東京輪舞』について話したいけど相手がいない、という私のような方がもしいれば、この文章が少しでも話し相手代わりになれば嬉しいです。

「あのシーンのあの髙木くんが好き...」といった煩悩まみれの感想はSNSで書いてますのでそちらは見ないでください...

戯曲「LUNGS」あらすじ&考察

神山智洋さんが舞台「LUNGS」で初の単独主演を務めることが決定しました。原作は英国の劇作家ダンカン・マクミランが2011年に発表した戯曲。

環境問題をはじめとする様々な課題が渦巻く現代社会で「そろそろ子供を持つべきなのか」という問いをきっかけに、若い男女カップルの会話劇が展開していく二人芝居です。

"現代戯曲の最高傑作“とも評されているこの作品が、日本初上陸。その主演に神山くんが抜擢されたとなれば、これは是が非でも観たい!だって"現代戯曲の最高傑作“だよ?!しかも調べてみたら内容がめちゃめちゃ面白そう!

えーーーーーー原作読みたーーーい!!!

ということで、情報が初解禁された rainboW 埼玉公演初日の数時間後に戯曲の電子版を購入。

 

〜読了後〜

 

「...神山くん、とんでもない作品と巡り合ってしまったのでは...?」

 

すごい。なにこれ。なにこの作品。登場人物は二人だけ。ナレーションも一切無く、男女の会話だけが延々と続く。その会話がとにかくリアル。リアルというか、生々しい。舞台用に作られた言葉ではなく、どこかに実在するカップルのプライベートなやりとりを覗き見している感覚に陥るような、飾り気のない鋭利な台詞。素舞台(セットや小道具が何もない状態)を想定して書かれていて、場面の変化や時間の経過を示す注釈も全くないのに、二人の会話を読んでいるだけで、情景がはっきりと浮かんでくる。

戯曲が発表されたのはおよそ10年前ですが、描かれているテーマは2021年現在でもタイムリーで、考えさせられるものばかり。「これは私の話だ」と感じる人も多いんじゃないだろうか。

あと、活字で読んだだけでも分かる、この作品、役者の技量がとてつもなく問われる。たぶん相当な演技力がないと成立しない。現代戯曲の最高傑作と言われているのも大納得。

 

「神山くん、とんでもない作品と巡り合ってしまったのでは...?」(2回目)

 

この役を神山智洋が演じるのか、この台詞を神山智洋が言うのか、と考えるだけで動悸とか息切れとか興奮とか震えとか吐き気とかが止まらない。めちゃめちゃ良い意味で。

 

個人的に以前から関心のあるテーマが描かれていたこともあり「推しが舞台をやる」ということを抜きにしても「LUNGS」という物語にハマってしまいました。それから2周目、3周目と戯曲を読み返したり「過去に上演された時の様子も見てみたい」と映像資料、画像資料を漁りまくったり。

 

丸2日立つ頃には、

LUNGS、もう観たかも(※観てない)」

みたいな気持ちになってた。

 

という訳で、10月11月の日本版「LUNGS」上演が待ちきれない人間がやり場のない想いをぶち撒けるために、戯曲のあらすじ&考察を(※重要→)一個人の解釈で書き綴るというのがこの文章の趣旨です。

 

舞台作品を観賞する人の中には、できるだけ事前知識のない「真っさら」な状態で初見に臨みたい、という人から、できるだけ予習をして、内容を頭に入れた状態で観たい人まで様々なタイプがいると思います。私は基本的に後者。作品の内容やあらすじを事前に頭に入れておくことで、目の前で繰り広げられる芝居により深く没入したい。一度しか観に行く予定のない作品なら尚更、その一公演を目一杯楽しむため、大事なポイントをを見逃さないためにとことん予習をしたいタイプです。ネタバレ上等。ネタバレ大歓迎。

特に「LUNGS」は、作者が指示する演出上、場面の切り替わりや時間軸を追うのが難しい作品になっています。あと役者が結構早口で喋ります(これも作者による指示の一つ)。初見だと途中で話について行けなくなる可能性もありそう、というのが個人的な印象。

 

もう一つ、私が舞台作品の予習を好む理由として「苦手な描写の有無を事前に知っておきたい」というのがあります。映画や舞台を観ているときに突然出てくるとしんどくなってしまう描写がいくつかあったりするので、それがあるかを事前に把握して「心の準備」をしておきたい。

(※「LUNGS」にも、人によっては苦手なんじゃないかな、というテーマへの言及や、描写があります。)

 

ということで、この後書く内容は思いっきり戯曲のネタバレを含みます(←堂々と言うようなことではない)。ネタバレOK、寧ろネタバレを求めている、という私のようなピンポイント需要がある方向けです。

とはいえ「結末まで全部分かってしまうのは嫌だ」という方もいると思うので、私の独断と偏見でストーリーを「起・承・転・結」の4パートにざっくり分けて、あらすじを要約していきます。各自が「これ以上は自分で観る/読む時のお楽しみにしておきたいな」と思うポイントでストップしていただけたらと思います。

 

あらすじの後の考察では、もちろん戯曲の内容に触れていますが、物語における重要な出来事や結末については触れないようにしています。あらすじは途中でスキップして、考察に飛んでいただいても大丈夫です(「起・承」あたりまでのネタバレは含んでいると思いますのでご注意ください)。

 

現在「LUNGS」の戯曲は英語版しか存在しないため、予習したい気持ちはあるけどハードルが高いという方も多いのでは、と思ったこともこの文章を書こうと決めた理由の一つです。しかしながらこれを書いているのは日本語が第一言語で、英語は第二言語(英語圏での日常生活/高等教育の場で支障がない程度)という言語的背景を持った人間です。翻訳のプロでもなければ、劇評のプロでもなんでも無いので、あらすじに関しては物語の中で起こる出来事を時系列で淡々と列挙していく形に留めています。また、これは言語を問わずあらゆる物語に関して言えることですが、登場人物の性格や心情は観る/読む人の解釈によって大きく変わるものだと思います。なので各場面での登場人物の心情についても、ストーリーを理解する上で必要だと感じる最低限の記載に留めており、それもあくまで私個人の解釈によるものです。

 

登場人物の台詞、言葉こそがこの作品の醍醐味(むしろそれが唯一の構成要素)であり、マクミランの紡ぐ生々しい言葉、時に鋭く、時には柔らかな台詞の魅力は私の文章では到底表現できないものです。なので、洋書を読むのが苦じゃない方は是非、実際に戯曲を読んでください(amazonで買えます。電子版もあるよ!)。それを大前提として、もう少し「LUNGS」という作品について知る材料が欲しいな〜という方にとってこの文章がちょっとした参考になれば幸いです。

 

前置きが長くなってしまいましたが、以下あらすじと考察です。

※性に関連する直接的な描写を含みます。
※人によってはトラウマを想起する(過去の辛い経験を思い出す)可能性のある内容に言及します。
※再度の確認ですが、戯曲のネタバレをたっぷり、がっつり、しっかり含みます。それでも大丈夫という方だけお読みください。特に作品の核心に触れそうな場面の前にはもうワンクッション(場合によってはツークッション)注意書きを入れますので、途中でUターンしたい方はそちらも参考にしてください。
神山智洋さんが出演する舞台「LUNGS」が戯曲のストーリーをどの程度踏襲するかは、言わずもがなまだ誰にも分かりません。ここに書くのはあくまでも戯曲「LUNGS」の内容に基づくあらすじ&考察です。

 

 

<目次> 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

設定

・素舞台で演じられることを想定
・セットも、家具も、小道具も、パントマイムも使わない
・衣装替えはなし
・照明や音響は、場面や時間の変化を示すために用いない
・登場人物は早口で話す
・幕間はなし(過去の上演時間はおよそ80分)
・物語の舞台は、公演が行われる都市に設定する
・(戯曲ではロンドンを舞台に台詞が書かれているが)舞台となる都市に応じて、台詞に登場する場所は変更する

 

登場人物

W:女性。Mのパートナー。年齢は明言されていないが25-35前後と思われる。大学院の博士課程に在籍。

M:男性。Wのパートナー。年齢は明言されていないが25-35前後(Wと同世代)と思われる。職業はいわゆる「売れないミュージシャン」で、定職に就かず、音楽活動をしている。

WとMは同棲中のカップルだが結婚はしていない。

 

「W」と「M」は登場人物の名前ではない。

この戯曲が上演される際のプログラム等には、出演者の名前のみを記載し、「誰を」演じるかは示さない。

 

あらすじ

家具屋で買い物をしている最中、MがWに対して「子供を持つこと」を提案する。Wは急な話題に動揺し、二人の会話はちょっとした口論に発展する。

 

帰りの車に乗ってからも二人の会話は続く。

Wは「子供を持つこと」に対する自分の考えを話しはじめるが、結論がなかなかまとまらない。

 

帰宅後、二人は晩酌をしながら会話を続ける。話題は地球の環境問題、人口問題にまで拡大し、Wは自分達が子供を持つこと(=人口増加に寄与すること)はそうした問題を悪化させるのだけなのではないか、と話す。一方Mは、発展途上国の(考えなしに沢山の子どもを持つ)人々に問題があり、自分達のような(先進国の”優れた“)人々こそが子供を増やすべきだと主張する。

 

Wは養子を貰うのはどうか、と提案するが、Mはそれに反対する。 

次第に会話は「理想の両親」「理想の子育て」に関する話題に発展していく。二人は「子供を持つこと」に対して先ほどよりも肯定的に話せていることに気がつく。

 

数日後、二人は動物園でデートをする。久しぶりのアウトドアを満喫したその日の夜、Wは突如「子供を持とう」とMに提案し、二人は寝室へ向かう。

 

 

この辺りまでが物語の導入部分です。この後、起承転結の「承」パートに入り、さらにストーリーが進展していきます。

※これ以降、性に関連する直接的な描写が増えていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(Wが「子供を持とう」と提案してから数週間が経ったが、毎回Wが行為直前に怖気付いてしまい、結局二人はまだ一度も子作りに及んでいない)

 

改めてセックスを試みる二人だが、直前で再びWが「ストップ」をかけ、Mはそれに苛立つ。二人の会話はこれまでの性生活に関する話題に発展し、Wはそこで、行為中のMに恐怖を感じることがあると告白する。ショックを受けたMは寝室を出て行ってしまう。

 

翌朝、二人は今後の生活(転居、結婚、就職など)について会話をするが、Wのふとした発言がきっかけで再び不穏な雰囲気になってしまう。

 

話題は昨晩の件に戻る。Wはセックスだけでなく、妊娠・出産に関しても不安を感じていることを伝え、Mはそれに対する自分の思いを返答する。WはMが珍しく素直に心中を打ち明けてくれたことに感心し、先ほどまでとは一転、穏やかな空気が流れる。

 

(この間、時間経過あり?)

 

Wがタバコを吸っていると、Mは「子どもを持つつもりなら禁煙するべきだ」と咎める。Wはそれに反発し、軽い口論になる。

 

後日、Mは定職に就くことになり、出勤初日を迎える。

Mを職場まで車で送る道すがら、Wは子供を持つことが地球環境に与える負荷について話し始め、その内容は次第に過激になっていく。

(明言はされていないが、ここまでのどこかのタイミングで、二人は少なくとも一度はセックスに及んでいると推察される)

Wは生理が来た(=先日の子作りが成功しなかった)ことをMに伝える。


(この間、時間経過あり?)

 

Mが仕事から帰宅した場面。二人は毎週火曜日、Mの昼休憩に一緒にランチをすることを決める。

 

その直後の火曜日、Wがピクニックの用意をしてMの職場に現れる。Mは火曜日の約束について忘れており、仕事の予定を入れてしまっていたが、二人は食事を始める。

ピクニックをしながらMが環境問題について話していると、Wは突然「今すぐセックスをするべきだ」と言い出し、二人は人気の無い場所へ向かう。

 

(行為中の描写は一切なし。次の場面は事後の会話から始まる。)

 

セックスの後、二人は人の善悪について話し始める。程なくしてMは仕事へ戻る。

 

その日の夜、二人は一緒に入浴しながら、昼の会話の続きを始める。Wは、自分たちは環境に配慮した倫理的な生活を送る“善い“人間であるはずだ、と話す。

 

(この間、時間経過あり?)

 

ある夜、Wは自分の身体の変化に気づき、二人は妊娠検査薬を買いに行く。

 

帰宅後、早速妊娠検査薬を使う。

 

(結果は陽性)

 

Wの妊娠が分かり、二人は両親にそれを伝えるべきか話始める。

Wはまず自分の両親に電話をしようとするが、Mはこのことについて誰かに話すことをためらう。

話題はMの両親に関することに発展し、会話は不穏になっていく。

 

(Wは両親に電話で妊娠について伝える。 次の場面はその後のシーンから)

 

MがWの両親の反応はどうだったか尋ね、Wは母親が泣いていたことを伝える。

「Wの母親は、Wが自分の子供を身籠ったことを快く思っていない」とMは主張し、感情的になる。

 

 

ある夜の就寝前、二人は「もしも自分たちの子供に"何か"(恐らく先天的な障がいのことを示唆している)」という会話をする。Mは「“もしも“の場合に備えるべきだ」と主張するが、Wは「どんな状態で生まれてきたとしても、その子を愛する」と返答する。

 

なかなか眠れないMは、生や死について、そしてWに対する思いを独白し始める。

 

 

(ここから数シーンの間、短めの会話で場面が切り替わり、時間が経過していく)

 

時間が経ち、Wのお腹の膨らみが分かるほどになる。

 

 

Wが子供部屋を用意する。

 

 

二人は来たる「その日」への期待や不安について話し合う。

 

 

起承転結でいうと「承」の部分は恐らくここまで。この後はいわゆる「転」のパートです。

作品の核心部分は知りたくないという方はこの辺りでのUターンを(割と真剣に)おすすめします。(自分で書いておきながら言うのも変な話ですが)

 

→目次へのUターンはこちら

→「考察」までスキップしたい方はこちら

 

 

 

 

 

(最終確認 :この後、物語における重大な出来事が起こります)

(人によってはーー少なくとも私はーー辛いと感じる描写があります)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Wの身体に異変が起こり、二人は急いで病院へ向かう。

 

(明言されていないが、恐らくここでWのお腹の子供は流産してしまう)

 

 

 

帰宅後、WはMからの問いかけに全く反応しなくなってしまう。

 

MはWに声をかけ続けるが、Wからは何の返事もないまま、数日が経つ。

 

再びWがMと会話をするようになるが、すぐに口論に発展し、二人は互いに感情をぶつけ合う

 

(この間、時間経過あり?)

 

Mはおもむろに、職場のある女性とキスをしたことをWに打ち明ける。

それを聞いたWは、自分がMに対して求めていたことを伝え、最終的に二人は別れることになる。

 

 

 

 

(おそらく数ヶ月から数年?が経過)

 

二人は久しぶりにカフェで再会する。

(明言されていないが、おそらくWの母親が亡くなったことを伝えるため)

WはMに、葬儀に同席してほしいと伝える。Mはそれを承諾し、自身の父親が数ヶ月前に亡くなった事を打ち明ける。

 

二人は感傷に浸りながら、お互いの近況、別れた後の生活や心境の変化について話す。

あるタイミングで、二人の会話が途切れる。

 

(この間二人は再びセックスをするが、行為中の描写は一切なし。次の場面は事後の会話から始まる)

 

セックスの後、二人は別れてからの互いの恋愛事情について話し、Mは自分に婚約者がいることを打ち明ける。それを聞いたWは「自分たちは二度と会うべきではない」と伝える。

 

 

 

 

この辺りまでが、物語の転換部分だと思います。この後、起承転結で言うところの「結」のパートに入っていきます。

ストーリーの「落ち(オチ)」を知りたくないという方はここでのUターンを(かなり真剣に)おすすめします。

 

 

→目次へのUターンはこちら

→「考察」までスキップしたい方はこちら

 

 

 

 

 

 

(この後もまだまだいろいろ起こります)

(早速もう一つ、大きな出来事があります)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後日、WがMの前に現れ、妊娠していること(その子の父親がMであること)を伝える。Mの婚約者が近くにいることを知ると、Wはその場を立ち去ってしまう。

 

 

MはWを探し回ってようやく見つけ出し(おそらく、かつて二人がピクニックをした公園)、二人は「これからどうしていくか」で言い合いになる。Wは、自分の口からMの婚約者にこの事を伝えると言い張るが、最終的にはMが直接、婚約者に伝えに行くこととなる。

 

(Mが婚約者にWの妊娠について伝えると、婚約者はMに怪我をさせるほど激しく取り乱し、婚約は破棄になる)

その後、Mは再びWの元を訪れ、事の顛末を伝える。

二人は再び「これから」について話し合う。

 

 

(この後、二人は再び付き合い始める)

 

 

(これ以降、短い会話で場面が切り替わり、どんどん時間が経過していく)

 

Wに陣痛が訪れる。

 

二人は病院へ向かう。

 

男の子が生まれる。

 

男の子は成長し、やがて親元を離れていく。

 

二人は結婚する。

 

二人は息子の成長を見守る。

 

(おそらくこの時点で二人はかなり歳を取っている)

 

Mが病気になり、手術を受けることになる。

(このシーンがMの最後の台詞)

 

(Mが先立つ。この後はWの独白のみ)

 

高齢になったWは、施設に入れられる。

WはMの眠る場所に献花に訪れ、Mに語りかける。

(このシーンがWの最後の台詞)

 

 

ここで物語は終わります。

最後のWの台詞は、何度読み返しても泣いてしまう。

 

 

 

 

 

 

考察

ここからは、戯曲「LUNGS」の考察をとりとめもなく書き連ねていきます。

 

会話(discourse)の多様性、流動性について

戯曲「LUNGS」は混じりっ気なしの「会話劇」。その始まりから終わりまで、WとMという二人の人間の言葉のラリーのみ、二人の「話す」という行為のみで構成されている訳ですが、「会話」と一言で言っても、さまざまな種類がある。

 

会話。対話。話し合い。おしゃべり。雑談。言い合い。議論。口論。喧嘩。独白。

 

「二人の個人の間に生じる言葉のやりとり」を意味するワードを思いつく限り列挙してみましたが、これらだけを比べてみても、それぞれのワードからイメージする当事者の感情やその場の状況は大きく異なることが見てとれます。

 

前述したあらすじの中で、私はおそらく「会話」「言い合い」「話し合い」「口論」辺りのワードを多用していたと思いますが、もちろんこれらは戯曲の中に明示されている訳ではありません。私が戯曲を読み進めながら頭に思い浮かべたWとMのやり取りを言葉で表現しようとした時、場面ごとに1番しっくりきたーー本当はもっと良い表現があるとは思うけど私のボキャブラリーの中では多分1番しっくりきているーー ワードを当てはめています。

また、ネット上にある映像資料の中で、実際に役者さんが台詞を言っている様子を見ることができた部分については、そちらの演技の雰囲気も参考にしながらあらすじを記載しています。

 

全体を通して、WとMは互いの感情を露わにしてーー時に乱暴な言葉を用いながらーー「言い合う」場面が多い印象です。

(英語にはスラングという日本語ではあまり馴染みの無い表現があり、特に若い世代の日常会話の中ではそれが普通に用いられています。台詞の中にスラングが頻繁に登場することも、私が戯曲からそのような印象を受けた理由の一つだと思います。)

万が一、億が一、仮にこの戯曲を、非っっっ常に雑な言葉で、作品への愛情やリスペクトなしに表現するとしたら、「カップルがずっと喧嘩してる話」と言ってしまうこともできなくはない。あまりにも無粋、野暮、ナンセンスだけど。

 

前置きでも書いた通り、マクミランの紡ぐ台詞は一言一言がリアルで生々しくて、時に鋭く、時には柔らかい言葉で、WとMの繊細な心情の変化を表現しています。一連の会話の中で、二人の感情や思考が刻一刻と変化をしながら、二人の生きる空間と時間を描いていきます。

 

ただの雑談だったはずが、いつの間にか口論になっていたり。激しく感情をぶつけあっていたかと思えば、次の瞬間には笑い合っていたり。

 

今二人は「話し合い」をしているんだな、ここでは「口論」になっているんだな、というように、会話の種類の違い、会話の種類が変化していく様子が自然と伝わってくるんです。

同じ「言葉のやりとり」でも、こんなに多様な姿を持ちうるのか、と思わず唸ってしまいます。

 

さらに言えば、同じ台詞でも役者の言い方一つで全く違う雰囲気を纏うことができるわけです。

戯曲を読んで受けた印象と、舞台を観て受ける印象を比べてみるのも面白いかもしれません。

 

会話は多様であり、流動的であり、生きている。

「LUNGS」という会話劇の大きな魅力の一つはここにあると思います。

 

それにしても、この作品、台詞の量が半端ない。

あとほんと早口(これは映像を観てしみじみ思った)。

演技力はもちろんのこと、役者としての"基礎体力"みたいなものがかなり試されそう。

 

 

WとMの対比

戯曲の中ではしばしば、WとMが対照的な存在として描かれています。

女と男。未来のドクターと売れないミュージシャン。喫煙者と非喫煙者

 

「子供を持つこと」に対する姿勢も、WとMでは対照的です。

物語の序盤、まだ“検討中“の段階では、Mが「子供を持つこと」にポジティブな考えを示す一方、Wはどちらかというと消極的です。

しかしいざWが妊娠したことが分かると、次はMがマイナス思考になっていきます。一方のWは、 妊娠が分かってからの方が前向きな言動が増えていきます。

 

全てにおいて"正反対"というわけではないけれど、決して"似たもの同士"ではない。

対照的な部分を備えた二人だからこそ、人間的な魅力に溢れた、見応えのあるカップル像を形成しているのだと思います。

 

Wについて

私は、この物語の主人公はWなんじゃないかと思っています。

 

物語の主題が「子供を持つべきかどうか」である点からも分かる様に、この物語で起こる大きな出来事の多くはWの身体に起こることです。

 

自身の身体に起こる様々な変化に直面するたびに、Wの心情は大きく揺れ動きます。

戸惑い、歓喜し、怒り、絶望し、時に心を閉ざす。

Wを演じる役者さんは特に、"鬼気迫る"演技が必要とされるのではないかと思います。どなたが演じるのか、本当に楽しみ。

 

Wが自身の心、身体、そしてMというパートナーとどう向き合い、どのような選択をしていくのか。ここを物語の軸として捉えるならば、すなわち「LUNGS」は「Wの物語」なのではないでしょうか。

 

 

ところで、日本版「LUNGS」では、恐らくMを演じるであろう神山智洋さんが主演を務める訳ですが、私はここに少しだけ違和感を感じています。

先ほどから書いているように、この物語を仮にどちらか一人のものだとするならば、私は絶対に「Wの物語」であると思うからです。

仮にどちらか一人を主役と呼ぶのなら、それはMよりはWなんじゃないか。そうでないとすれば、WとMは並列で(ただしWが先に)表記され、「ダブル主演」のような形がとられるのがベストではないか。

私が今回読んだ、出版され広く世間に公開されているバージョンの戯曲「LUNGS」は、2011年の初演から8年後の2019年、ロンドンのThe Old Vicで上演された作品の元となっているものです。このThe Old Vic版の上演をきっかけに「LUNGS」は大きな注目を浴びます。

The Old Vic版のキャストが記載されているマテリアルでは、基本的にWを演じる俳優(Claire Foy)、Mを演じる俳優(Matt Smith)の順で表記され、どちらかが主演であるという記載はありません。うん。この形が1番しっくりくる気がする。

自分の応援している人が主演を務めることは、もちろん嬉しい。だけど、Mが主役で、Wが脇役であるかの様にもし捉えられてしまうとしたら、それは少し、いやかなり、モヤモヤしてしまうかもしれません。

 

Mについて

Mは、戯曲を読む/観る人によってキャラクターの解釈が特に変わってくる存在かもしれません。ぱっと見は真面目で優しくて、正義感の強い人物のようにも思えますが、物語が進むにつれて「...ん?」とか「...は?」とか思うような言動が出てきます。

 

私は、Mという人物を語る上でキーワードとなるのはコンプレックス(劣等感)だと思っています。

 

ある夜、MがWの寝ている横で独白するシーン。戯曲全体の中でも特に多くの詩的・比喩的な表現が使われているこの場面の台詞は、MのWに対する劣等感のようなものを感じさせます。

Wは大学院の博士課程に進んでいる、いわゆる"高学歴"な女性です。一方Mは、安定した職に就かず、音楽活動をしてはいるものの、なかなか結果の出ないミュージシャン。

自分よりも社会的・経済的に高いステータスにいるWや、成功を収めている他のミュージシャンたち。それらの人々と自分を比べて、Mが劣等感を抱いている可能性は十分にあります。

 

別の場面、Wの妊娠が発覚し、それを聞いたWの母親が泣いていたことを知るM。

Mは「お腹の子の父親が僕じゃなければよかったのにと思ってるんだろう」と言って取り乱し、非常に乱暴な言葉をぶつけます。

物語の中でMがとりわけ感情を露わにするこのシーンからも、Mの抱える劣等感を窺い知ることができます。

 

Mのコンプレックスのようなものは、別の形でも表れています。

Wが、妊娠・出産への不安をMに話すシーン。Mは「代わってあげられなくて申し訳ない」と言い「(妊娠・出産に関して)自分たちは対等でないように感じる」と打ち明けます。

その後のいくつかの場面でも、 MはWの身体に起こる変化に対して「どうすればいいか分からない」「君が何を求めているのか分からない」といった趣旨の発言を何度もしています。

妊娠・出産という出来事に関して、一種の疎外感を感じているようにも受け取れます。

 

マクミランがどこまで意図しているかは分かりませんが、私はMの人物像の中に、男性性(Masculinity)の脆さが含まれているように感じます。

「子供を持つ」という出来事を通して、Mが葛藤し、打ちひしがれ、自身の無力、無知に直面する様子は、社会から期待される「男らしさ」とはかけ離れた、リアルな男性の苦悩を巧みに描いていると思います。

 

 

ここまで読んでくださった方、「この文章を書いている人はやけにMに対して当たりが強いな」と思われているかもしれません。ご心配なく。私にもその自覚はあります。

この点については「自分がWとM、どちらにより深く共感するか」が大きく関わってくると思います。私は女性の身体を持ち、性自認も女性なので、戯曲の中でもWの置かれている状況の方が想像しやすく、より「自分ごと」として捉えることができたのは事実です。

(戯曲を読んだ方の中で、MよりもWに共感した方であれば、私がなぜMに対して若干当たりが強いのか、おそらく分かってくださると思います。)

もっと言うと、そもそも人物像の解釈の時点で、女性であるWに自分を投影している、つまり無意識のうちに自分と似たキャラクターとして頭に思い描いている可能性もあります。

そういう意味では、WよりもMに共感した、という方の「LUNGS」の感想もぜひ聞いてみたいです。もしかすると、まるっきり違う物語として解釈しているかもしれない。

 

性と生殖(セックス・妊娠・出産)について

このテーマで4年ほど、英語圏で研究をしていたという背景もあり、戯曲の中で描かれる「性と生殖」については特に注目して読んでいました。いくつかのキーワードをピックアップして書いていきます。このパートだけ急に小難しい話が多いですがご容赦ください。

 

優生思想(Eugenics)

優生学」という学問があります。身体的、精神的に優れた者の遺伝子を保護し、劣った遺伝子を排除することで、より優れた子孫・人類を残すことを研究する学問のことで、これに基づく思想を「優生思想」と呼びます。定義だけ聞くとSFか何かの話のように感じるかもしれませんが「LUNGS」にはこのテーマが何回か登場します。

 

ある夜、WとMが「もしも自分たちの子供に"何か"あったら」という会話をするシーン。明言はされていませんが、ここではは胎児の先天的な障がいの可能性について議論していると考えられます。これも明言はされていませんが、二人はもしかすると「出生前検査(妊娠中の胎児の発育や異常の有無を調べる検査)」を受けようと考えているのかもしれません。

 

出生前検査の用いられ方については倫理的な観点からの議論が続いています。例えばお腹の子供が障がいを持って生まれてくる可能性が高いと分かったとき、それを理由に「産まない」という選択をしてもいいのか。それは優生学的な考え方なのではないか。

 

Mは会話の中で「"もしも"の場合に備えるべきだ」と言いますが、これは「(“もしも"の場合は)"産まない“選択肢もある」という意味にもとれる発言です。それにWは反発し「どんな姿で生まれてきたとしても、その子を愛する」と主張します。

 

別の場面でもMは優生学的な発言をしています。これについては後ほど書きます。

 

セックスにおける主体と客体

男女のセックスでは、男性が主体(積極的に行動を起こす側)であり、女性が客体(行動を受け入れる側)であるかのように描かれる、考えられることが多くあります。これは "sexual script (セクシャルスクリプト)"と呼ばれるもので、スクリプトは「台本」を意味する言葉です。

役者が台本の内容に従って自分の役を演じるように、人間(ここでは男女のカップルに限定)も日常の恋愛関係、性関係において「男性はこうするべき」「女性はこうするべき」といった“役割“ "台本(sexual script)" を意識的、または無意識的に演じているのだという考え方を "sexual script theory (セクシャルスクリプトセオリー)"と呼びます。

このセクシャルスクリプトは、人間がある社会、文化の一員として成長する中で、周囲の人との関わり合いや、見聞きする情報をもとに無意識に身につけていくものであり、特に「メディア」の影響が大きいと言われています。

世の中に溢れる、男女の恋愛・セックスの「ハウツー」的な情報の多くは、男性を主体、女性を客体として描いています。私たちがよく目にするフィクション(小説、漫画、ドラマ、映画など)でも、同様の描かれ方をしていることが多いのではないでしょうか。まさにこういった情報から、セクシャルスクリプトは形成されていきます。

 

前提の説明が長くなってしまいましたが、ここでWとMの話に戻ります。

二人が「子供を持とう」と行動を起こすシーン。先に進もうとするMに対してWが「ストップ」をかけ、Mはそのことに苛立ちを見せます。この時点でももう二人の立場は「主体」と「客体」に分かれていることがわかります。

 

セックスの直前になって怖気付き、先に進むことができないW。

Wは「子作りのための行為は神聖で美しく、特別なものでなければならない」と主張します。にも関わらず、行為中のMのWに対する態度は「まるで私を憎んでいるような、殺人鬼かポルノの中の男性みたい」であるとWは感じ、ある種の恐怖心から先に進めないのだと告白します。

 

生々しい会話が続くこの場面ですが、 私はWとMそれぞれのセックスに対するスタンスが表れているとても興味深いシーンだと思っています。

 

Wが表現する「行為中のM」は、まさに前述したセクシャルスクリプトに忠実で、積極的な(時に攻撃的とすら感じるほどの)態度を見せる男性のように思えます。

Wの告白に対して、Mは「(行為中)いかに自分がWに"集中"しているか」主張するわけですが、ここでの発言もMのセックスにおける「主体」としてのスタンス、積極性や攻撃性のようなものを滲ませています。

 

一方のWは、Mとの行為に「ストップ」をかけていることからも分かる様に、Mが「主体」として一方的に自分にアクションを起こすことに恐怖を感じ、「客体(=受け身)」になることを拒んでいます。つまりここでWは、セクシャルスクリプトに忠実な「男性が主体であり女性が客体である」セックスに抵抗しているのです。

ここで興味深いのは、Wが「普段の(=子作りを目的としない、コミュニケーションとしての)セックスであれば、それでも(=自分が受け身であっても)構わない」「むしろ普段のセックスでは、Mの積極的な態度を求めている」といった趣旨の発言をしていることです。つまり普段のセックスではWは自ら望んで、セクシャルスクリプトにおける「客体としての女性」の役割を演じているのです。

 

これらの発言から分かることは、Wが「子作りを目的としたセックス」と「それ以外のセックス」を“別物“として考えていることです。

子作りのためのセックスは神聖で美しく、特別な行為でなければならない。だからこそ、Mからの攻撃的なアクションを一方的に受け入れるのではなく「繋がり」を感じることができるようなセックスがしたい。

Wが「妊娠・出産のためのセックス」を特別視し、セックスにおける主体性を取り戻そうとするこのシーンは、とても印象的です。

 

 

家族・結婚・子育てについて

家族・結婚・子育てについても、ざまざまなテーマが戯曲の中で描かれています。

 

養子縁組

妊娠し、出産することだけが「子供をもつ」方法ではありません。養子を迎え入れることもできます。

「LUNGS」でも、WがMに「養子をもらうのはどうか」と提案するシーンがあります。しかしMはこれに反対します。

なぜMが養子をとりたくないのか、その理由は明言されていません。何となく抵抗感があるのかもしれませんし、もしかすると、親子の「血のつながり」を重要視しているのかもしれません。

 

余談ですが、この文章を書いている人間は現在進行形で「養子をもらうこと」を検討している(けれどもそれをパートナーとどう相談するか悩んでいる)こともあり、MがWの提案をバッサリ切り捨てる場面は読んでいて若干落ち込みました。

 

両親の話

WとMの会話にはしばしば二人の両親が登場します。

二人が「理想の親」「理想の子育て」について話し合う場面。WとMは度々、お互いの両親のことを「反面教師」のような存在として引き合いに出します。

別の場面でも、二人が自分たちの両親について語る様子からは、何かしらの確執やネガティブな過去があるようにも想像できますが、詳しいことは明言されていません。

(WとMの両親との関係性については、戯曲全体の中でも特に疑問が残ったポイントの一つです。あえて詳しいことが書かれていない可能性もありますし、ただただ私の読解力の限界だった可能性もあります。)

 

「こんな親になりたい」「こんな親にはなりたくない」「こんな子育てがしたい」とーー時折自分たちの親、子供時代と比べながらーー会話をする様子から、WとMが描く「家族の形」が少しずつ垣間見えます。

 

WとMが描く「家族のあり方」を通して、自分自身の「理想の家族像」のようなものも考えさせられる物語になっているので、家族やパートナーと一緒に観に行っても、新しい“気づき“があるかもしれません。

 

環境問題・人口問題・人の"善悪"について

「子供を持つべきか」という議論の中に、環境問題や人口問題といった地球規模の課題が登場するところも「LUNGS」の面白いポイントの一つです。WとMの会話には、特に西洋の先進国のミレニアル世代(orその下のZ世代)“あるある“だな、と感じるような話題、発言が多く見られます。

 

2000年代以降に成人を迎えた世代を「ミレニアル世代」と呼び、その下の1990年代中盤以降に生まれた世代を「Z世代」と呼びます。ミレニアル世代は生まれた時からコンピュータやインターネット技術が当たり前にあり、そうしたテクノロジーを日常生活で使いこなす、言わば「デジタルネイティブ」と呼ばれる世代です。金融危機、環境問題や格差の問題といった様々な社会課題が深刻化する中で育ってきたため、それまでの世代とは異なる価値観を持っているとも言われています。その下のZ世代は、物心ついた時からスマートフォンSNSが当たり前にある世代。デジタルネイティブ度はミレニアル世代よりもさらに高く、社会課題などに対してもより高い関心を持つ世代であると言われています。

 

WとMの会話を見て(読んで)いる限り、二人はミレニアル世代〜Z世代に入りかけ、くらいの世代なのではないかと推察します。環境問題などの社会課題に関心を持ち、SNSで関連する記事を読んでシェアしたり、それについてパートナーと話し合ったり、実際にリサイクルやサステナビリティに配慮した行動をしたり、できるだけ“正しい“生き方をしようとしています。

 

二人の社会課題への関心は「子供を持つべきか」という議論にも影響します。人口問題が深刻化する今の時代に、あえて「地球上に人間を“もう一人“増やす」ことにメリットはあるのか?子供を一人育てていくために排出される二酸化炭素の量は?そもそも自分たちの子供が大きくなる頃まで、この地球、この社会は無事に存続しているのだろうか?

「子供を持つこと」に関しても、“正しい“選択をしたいと考えるWとMですが、二人の考える“正しさ“には少し食い違いが見えます。

Wは子供を持つことは人口問題を悪化させるのだけなのではないか、と話す一方、Mは発展途上国の(考えなしに沢山の子どもを持つ)人々に問題があり、自分達のような(先進国の”優れた“)人々こそが子供を増やすべきだと主張します。

(前述した、Mの優生学的な考えがこの場面でも表れています。)

 

他の場面でも、二人は人間の“善悪"をテーマに語り合い「果たして自分たちは"善い"人間なのか」と自問します。

WとMが“正しく"あろうとすればするほど、二人の持つ「無自覚の特権(=先進国で生まれ育ち、何不自由ない生活を送ることができていること)」や、自分たちよりも"恵まれない“生活を送る“彼ら“に対する「無自覚の偏見」「無自覚の傲慢さ」のようなものが垣間見え、「果たして自分はどうなんだろう」と考えさせられます。

文化・言語・コミュニケーション、日本版「LUNGS」について

海外で生活した経験のある方や、海外ドラマをよく観る方は特にイメージが湧きやすいと思いますが、人と人のコミュニケーションのあり方は、国、文化、言語によって千差万別です。

 

WとMの会話を注意深く読んでいると、二人は常に二人ともが「話し手」であり、ほとんど「聞き手」としての役割を果たしていないことが分かります。相手の発言に相槌を打ったり、質問をして相手の話を膨らませたり、共感を見せる場面はほぼありません。

お互いがただひたすら「自分はこう思う」「あなたのここが分からない」「自分はこうしたい」「あなたはこうするべきだ」といったように、自分の考え、意見を述べ合っているのです。賛成も反対も、肯定も否定もしない。

 

この点は、戯曲「LUNGS」が英国を舞台に、英語という言語を用いて書かれていることも大きく影響していると思います。

英国を含む欧米諸国、いわゆる「西洋の先進国」の多くは"Individualism (個人主義)"的な価値観を強く持っていると言われています。“集団“よりも“個人“を重んじ、自立すること、独立することに価値を見出し、集団としての調和よりも、個人個人の権利、意思を尊重する考え方です。

一方で“個人“よりも“集団“を重んじる価値観を"Collectivism (集団主義/集産主義)“と言います。個人の権利や意思よりも、グループ(家族、職場、学校、社会など)としての調和を尊重する考え方です。日本はどちらかというと集団主義の価値観が強い文化を持っていると言われています。

 

個人主義の文化は言わば「はっきりものを言う」文化です。個人主義の色が濃い英国を舞台にした「LUNGS」が「はっきりものを言う」会話劇であることは納得の結果です。

 

一方の集団主義は言わば「遠回しにものを言う」文化です。言いづらい内容であれば特に、はっきり言葉で表現するのではなく、表情やジェスチャーから「察して」もらおう、といったコミュニケーション文化です。まさに日本的。グループとしての調和を大切にするため、「聞き手」が「話し手」に対する共感を示すような会話表現(相槌など)が多いことも、集団主義的コミュニケーションの特徴です。この辺りも戯曲「LUNGS」の会話劇とは対照的です。

 

個人主義的文化をベースにしている「LUNGS」と言う会話劇が、集団主義文化の日本を舞台に上演されるとどうなるのか、とても気になります。個人的には、英語の会話をそのまま日本語に訳して行うと、結構違和感があるような気もするし、それが逆にお芝居の良いアクセントになってくれるような気もする。

 

ちなみに「LUNGS」は韓国でも、日本より一足早く上演されています。韓国もどちらかと言うと、集団主義的な価値観の強いコミュニケーション文化を持っている印象なので、韓国版「LUNGS」はどんな作品だったのかも気になります。

 

 

文化や言語、コミュニケーションの違いがどのように"調理"されて、日本版「LUNGS」がどのような会話劇になるのか。今から本当に楽しみです。

 

まとめ

気づけば1万7千文字も書いてしまっていました。ここまでお付き合いくださった方(もしいらっしゃればですが)、ありがとうございました。

 

前置きでも書いた通り、戯曲「LUNGS」はどこかに実在するカップルのプライベートなやりとりを覗き見している感覚に陥るような、とてもリアルな会話劇です。

台詞一つ一つが生き生きとしていて、WとMの人間的な魅力に満ち溢れ、読む/見る側に様々なことを感じさせ、考えさせる作品だと思います。

 

この文章を読んで、より作品への興味が深まったり、実際に戯曲を手に取ろうと思っていただけたら嬉しく思いますし、戯曲を読んだ他の方の考察・感想もぜひ拝見したいので何卒(誰に向けて言っているのか分かりませんが)よろしくお願いします。 

 

結論:舞台「LUNGS」めちゃめちゃ楽しみ!!!!!!!

 

(小声で)最後にちょっとだけ、オタクの(ひどい)戯言

前置きでも書いた通り、この秋上演される舞台がどの程度戯曲の内容を踏襲するのかは分かりませんが、もしかすると

・恋人から何度も「お預け」をくらって不満気な自担
・恋人とのセックスについて赤裸々に(ある意味情熱的に?)話す自担
・JJ("事後の自担")
・恋人が妊娠検査薬を使う様子を見届けたがる自担(ここはかなりヤバいなって思った)
・感情的になって取り乱したり、泣き出したりする自担
・元カノにムラッと来ちゃう自担
・浮気して婚約者に滅多撃ちにされる自担

とかが見れるのかな、と思うと色んな意味で心臓が痛いです。神山担、強く生きよう。