戯曲「LUNGS」あらすじ&考察

神山智洋さんが舞台「LUNGS」で初の単独主演を務めることが決定しました。原作は英国の劇作家ダンカン・マクミランが2011年に発表した戯曲。

環境問題をはじめとする様々な課題が渦巻く現代社会で「そろそろ子供を持つべきなのか」という問いをきっかけに、若い男女カップルの会話劇が展開していく二人芝居です。

"現代戯曲の最高傑作“とも評されているこの作品が、日本初上陸。その主演に神山くんが抜擢されたとなれば、これは是が非でも観たい!だって"現代戯曲の最高傑作“だよ?!しかも調べてみたら内容がめちゃめちゃ面白そう!

えーーーーーー原作読みたーーーい!!!

ということで、情報が初解禁された rainboW 埼玉公演初日の数時間後に戯曲の電子版を購入。

 

〜読了後〜

 

「...神山くん、とんでもない作品と巡り合ってしまったのでは...?」

 

すごい。なにこれ。なにこの作品。登場人物は二人だけ。ナレーションも一切無く、男女の会話だけが延々と続く。その会話がとにかくリアル。リアルというか、生々しい。舞台用に作られた言葉ではなく、どこかに実在するカップルのプライベートなやりとりを覗き見している感覚に陥るような、飾り気のない鋭利な台詞。素舞台(セットや小道具が何もない状態)を想定して書かれていて、場面の変化や時間の経過を示す注釈も全くないのに、二人の会話を読んでいるだけで、情景がはっきりと浮かんでくる。

戯曲が発表されたのはおよそ10年前ですが、描かれているテーマは2021年現在でもタイムリーで、考えさせられるものばかり。「これは私の話だ」と感じる人も多いんじゃないだろうか。

あと、活字で読んだだけでも分かる、この作品、役者の技量がとてつもなく問われる。たぶん相当な演技力がないと成立しない。現代戯曲の最高傑作と言われているのも大納得。

 

「神山くん、とんでもない作品と巡り合ってしまったのでは...?」(2回目)

 

この役を神山智洋が演じるのか、この台詞を神山智洋が言うのか、と考えるだけで動悸とか息切れとか興奮とか震えとか吐き気とかが止まらない。めちゃめちゃ良い意味で。

 

個人的に以前から関心のあるテーマが描かれていたこともあり「推しが舞台をやる」ということを抜きにしても「LUNGS」という物語にハマってしまいました。それから2周目、3周目と戯曲を読み返したり「過去に上演された時の様子も見てみたい」と映像資料、画像資料を漁りまくったり。

 

丸2日立つ頃には、

LUNGS、もう観たかも(※観てない)」

みたいな気持ちになってた。

 

という訳で、10月11月の日本版「LUNGS」上演が待ちきれない人間がやり場のない想いをぶち撒けるために、戯曲のあらすじ&考察を(※重要→)一個人の解釈で書き綴るというのがこの文章の趣旨です。

 

舞台作品を観賞する人の中には、できるだけ事前知識のない「真っさら」な状態で初見に臨みたい、という人から、できるだけ予習をして、内容を頭に入れた状態で観たい人まで様々なタイプがいると思います。私は基本的に後者。作品の内容やあらすじを事前に頭に入れておくことで、目の前で繰り広げられる芝居により深く没入したい。一度しか観に行く予定のない作品なら尚更、その一公演を目一杯楽しむため、大事なポイントをを見逃さないためにとことん予習をしたいタイプです。ネタバレ上等。ネタバレ大歓迎。

特に「LUNGS」は、作者が指示する演出上、場面の切り替わりや時間軸を追うのが難しい作品になっています。あと役者が結構早口で喋ります(これも作者による指示の一つ)。初見だと途中で話について行けなくなる可能性もありそう、というのが個人的な印象。

 

もう一つ、私が舞台作品の予習を好む理由として「苦手な描写の有無を事前に知っておきたい」というのがあります。映画や舞台を観ているときに突然出てくるとしんどくなってしまう描写がいくつかあったりするので、それがあるかを事前に把握して「心の準備」をしておきたい。

(※「LUNGS」にも、人によっては苦手なんじゃないかな、というテーマへの言及や、描写があります。)

 

ということで、この後書く内容は思いっきり戯曲のネタバレを含みます(←堂々と言うようなことではない)。ネタバレOK、寧ろネタバレを求めている、という私のようなピンポイント需要がある方向けです。

とはいえ「結末まで全部分かってしまうのは嫌だ」という方もいると思うので、私の独断と偏見でストーリーを「起・承・転・結」の4パートにざっくり分けて、あらすじを要約していきます。各自が「これ以上は自分で観る/読む時のお楽しみにしておきたいな」と思うポイントでストップしていただけたらと思います。

 

あらすじの後の考察では、もちろん戯曲の内容に触れていますが、物語における重要な出来事や結末については触れないようにしています。あらすじは途中でスキップして、考察に飛んでいただいても大丈夫です(「起・承」あたりまでのネタバレは含んでいると思いますのでご注意ください)。

 

現在「LUNGS」の戯曲は英語版しか存在しないため、予習したい気持ちはあるけどハードルが高いという方も多いのでは、と思ったこともこの文章を書こうと決めた理由の一つです。しかしながらこれを書いているのは日本語が第一言語で、英語は第二言語(英語圏での日常生活/高等教育の場で支障がない程度)という言語的背景を持った人間です。翻訳のプロでもなければ、劇評のプロでもなんでも無いので、あらすじに関しては物語の中で起こる出来事を時系列で淡々と列挙していく形に留めています。また、これは言語を問わずあらゆる物語に関して言えることですが、登場人物の性格や心情は観る/読む人の解釈によって大きく変わるものだと思います。なので各場面での登場人物の心情についても、ストーリーを理解する上で必要だと感じる最低限の記載に留めており、それもあくまで私個人の解釈によるものです。

 

登場人物の台詞、言葉こそがこの作品の醍醐味(むしろそれが唯一の構成要素)であり、マクミランの紡ぐ生々しい言葉、時に鋭く、時には柔らかな台詞の魅力は私の文章では到底表現できないものです。なので、洋書を読むのが苦じゃない方は是非、実際に戯曲を読んでください(amazonで買えます。電子版もあるよ!)。それを大前提として、もう少し「LUNGS」という作品について知る材料が欲しいな〜という方にとってこの文章がちょっとした参考になれば幸いです。

 

前置きが長くなってしまいましたが、以下あらすじと考察です。

※性に関連する直接的な描写を含みます。
※人によってはトラウマを想起する(過去の辛い経験を思い出す)可能性のある内容に言及します。
※再度の確認ですが、戯曲のネタバレをたっぷり、がっつり、しっかり含みます。それでも大丈夫という方だけお読みください。特に作品の核心に触れそうな場面の前にはもうワンクッション(場合によってはツークッション)注意書きを入れますので、途中でUターンしたい方はそちらも参考にしてください。
神山智洋さんが出演する舞台「LUNGS」が戯曲のストーリーをどの程度踏襲するかは、言わずもがなまだ誰にも分かりません。ここに書くのはあくまでも戯曲「LUNGS」の内容に基づくあらすじ&考察です。

 

 

<目次> 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

設定

・素舞台で演じられることを想定
・セットも、家具も、小道具も、パントマイムも使わない
・衣装替えはなし
・照明や音響は、場面や時間の変化を示すために用いない
・登場人物は早口で話す
・幕間はなし(過去の上演時間はおよそ80分)
・物語の舞台は、公演が行われる都市に設定する
・(戯曲ではロンドンを舞台に台詞が書かれているが)舞台となる都市に応じて、台詞に登場する場所は変更する

 

登場人物

W:女性。Mのパートナー。年齢は明言されていないが25-35前後と思われる。大学院の博士課程に在籍。

M:男性。Wのパートナー。年齢は明言されていないが25-35前後(Wと同世代)と思われる。職業はいわゆる「売れないミュージシャン」で、定職に就かず、音楽活動をしている。

WとMは同棲中のカップルだが結婚はしていない。

 

「W」と「M」は登場人物の名前ではない。

この戯曲が上演される際のプログラム等には、出演者の名前のみを記載し、「誰を」演じるかは示さない。

 

あらすじ

家具屋で買い物をしている最中、MがWに対して「子供を持つこと」を提案する。Wは急な話題に動揺し、二人の会話はちょっとした口論に発展する。

 

帰りの車に乗ってからも二人の会話は続く。

Wは「子供を持つこと」に対する自分の考えを話しはじめるが、結論がなかなかまとまらない。

 

帰宅後、二人は晩酌をしながら会話を続ける。話題は地球の環境問題、人口問題にまで拡大し、Wは自分達が子供を持つこと(=人口増加に寄与すること)はそうした問題を悪化させるのだけなのではないか、と話す。一方Mは、発展途上国の(考えなしに沢山の子どもを持つ)人々に問題があり、自分達のような(先進国の”優れた“)人々こそが子供を増やすべきだと主張する。

 

Wは養子を貰うのはどうか、と提案するが、Mはそれに反対する。 

次第に会話は「理想の両親」「理想の子育て」に関する話題に発展していく。二人は「子供を持つこと」に対して先ほどよりも肯定的に話せていることに気がつく。

 

数日後、二人は動物園でデートをする。久しぶりのアウトドアを満喫したその日の夜、Wは突如「子供を持とう」とMに提案し、二人は寝室へ向かう。

 

 

この辺りまでが物語の導入部分です。この後、起承転結の「承」パートに入り、さらにストーリーが進展していきます。

※これ以降、性に関連する直接的な描写が増えていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(Wが「子供を持とう」と提案してから数週間が経ったが、毎回Wが行為直前に怖気付いてしまい、結局二人はまだ一度も子作りに及んでいない)

 

改めてセックスを試みる二人だが、直前で再びWが「ストップ」をかけ、Mはそれに苛立つ。二人の会話はこれまでの性生活に関する話題に発展し、Wはそこで、行為中のMに恐怖を感じることがあると告白する。ショックを受けたMは寝室を出て行ってしまう。

 

翌朝、二人は今後の生活(転居、結婚、就職など)について会話をするが、Wのふとした発言がきっかけで再び不穏な雰囲気になってしまう。

 

話題は昨晩の件に戻る。Wはセックスだけでなく、妊娠・出産に関しても不安を感じていることを伝え、Mはそれに対する自分の思いを返答する。WはMが珍しく素直に心中を打ち明けてくれたことに感心し、先ほどまでとは一転、穏やかな空気が流れる。

 

(この間、時間経過あり?)

 

Wがタバコを吸っていると、Mは「子どもを持つつもりなら禁煙するべきだ」と咎める。Wはそれに反発し、軽い口論になる。

 

後日、Mは定職に就くことになり、出勤初日を迎える。

Mを職場まで車で送る道すがら、Wは子供を持つことが地球環境に与える負荷について話し始め、その内容は次第に過激になっていく。

(明言はされていないが、ここまでのどこかのタイミングで、二人は少なくとも一度はセックスに及んでいると推察される)

Wは生理が来た(=先日の子作りが成功しなかった)ことをMに伝える。


(この間、時間経過あり?)

 

Mが仕事から帰宅した場面。二人は毎週火曜日、Mの昼休憩に一緒にランチをすることを決める。

 

その直後の火曜日、Wがピクニックの用意をしてMの職場に現れる。Mは火曜日の約束について忘れており、仕事の予定を入れてしまっていたが、二人は食事を始める。

ピクニックをしながらMが環境問題について話していると、Wは突然「今すぐセックスをするべきだ」と言い出し、二人は人気の無い場所へ向かう。

 

(行為中の描写は一切なし。次の場面は事後の会話から始まる。)

 

セックスの後、二人は人の善悪について話し始める。程なくしてMは仕事へ戻る。

 

その日の夜、二人は一緒に入浴しながら、昼の会話の続きを始める。Wは、自分たちは環境に配慮した倫理的な生活を送る“善い“人間であるはずだ、と話す。

 

(この間、時間経過あり?)

 

ある夜、Wは自分の身体の変化に気づき、二人は妊娠検査薬を買いに行く。

 

帰宅後、早速妊娠検査薬を使う。

 

(結果は陽性)

 

Wの妊娠が分かり、二人は両親にそれを伝えるべきか話始める。

Wはまず自分の両親に電話をしようとするが、Mはこのことについて誰かに話すことをためらう。

話題はMの両親に関することに発展し、会話は不穏になっていく。

 

(Wは両親に電話で妊娠について伝える。 次の場面はその後のシーンから)

 

MがWの両親の反応はどうだったか尋ね、Wは母親が泣いていたことを伝える。

「Wの母親は、Wが自分の子供を身籠ったことを快く思っていない」とMは主張し、感情的になる。

 

 

ある夜の就寝前、二人は「もしも自分たちの子供に"何か"(恐らく先天的な障がいのことを示唆している)」という会話をする。Mは「“もしも“の場合に備えるべきだ」と主張するが、Wは「どんな状態で生まれてきたとしても、その子を愛する」と返答する。

 

なかなか眠れないMは、生や死について、そしてWに対する思いを独白し始める。

 

 

(ここから数シーンの間、短めの会話で場面が切り替わり、時間が経過していく)

 

時間が経ち、Wのお腹の膨らみが分かるほどになる。

 

 

Wが子供部屋を用意する。

 

 

二人は来たる「その日」への期待や不安について話し合う。

 

 

起承転結でいうと「承」の部分は恐らくここまで。この後はいわゆる「転」のパートです。

作品の核心部分は知りたくないという方はこの辺りでのUターンを(割と真剣に)おすすめします。(自分で書いておきながら言うのも変な話ですが)

 

→目次へのUターンはこちら

→「考察」までスキップしたい方はこちら

 

 

 

 

 

(最終確認 :この後、物語における重大な出来事が起こります)

(人によってはーー少なくとも私はーー辛いと感じる描写があります)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Wの身体に異変が起こり、二人は急いで病院へ向かう。

 

(明言されていないが、恐らくここでWのお腹の子供は流産してしまう)

 

 

 

帰宅後、WはMからの問いかけに全く反応しなくなってしまう。

 

MはWに声をかけ続けるが、Wからは何の返事もないまま、数日が経つ。

 

再びWがMと会話をするようになるが、すぐに口論に発展し、二人は互いに感情をぶつけ合う

 

(この間、時間経過あり?)

 

Mはおもむろに、職場のある女性とキスをしたことをWに打ち明ける。

それを聞いたWは、自分がMに対して求めていたことを伝え、最終的に二人は別れることになる。

 

 

 

 

(おそらく数ヶ月から数年?が経過)

 

二人は久しぶりにカフェで再会する。

(明言されていないが、おそらくWの母親が亡くなったことを伝えるため)

WはMに、葬儀に同席してほしいと伝える。Mはそれを承諾し、自身の父親が数ヶ月前に亡くなった事を打ち明ける。

 

二人は感傷に浸りながら、お互いの近況、別れた後の生活や心境の変化について話す。

あるタイミングで、二人の会話が途切れる。

 

(この間二人は再びセックスをするが、行為中の描写は一切なし。次の場面は事後の会話から始まる)

 

セックスの後、二人は別れてからの互いの恋愛事情について話し、Mは自分に婚約者がいることを打ち明ける。それを聞いたWは「自分たちは二度と会うべきではない」と伝える。

 

 

 

 

この辺りまでが、物語の転換部分だと思います。この後、起承転結で言うところの「結」のパートに入っていきます。

ストーリーの「落ち(オチ)」を知りたくないという方はここでのUターンを(かなり真剣に)おすすめします。

 

 

→目次へのUターンはこちら

→「考察」までスキップしたい方はこちら

 

 

 

 

 

 

(この後もまだまだいろいろ起こります)

(早速もう一つ、大きな出来事があります)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後日、WがMの前に現れ、妊娠していること(その子の父親がMであること)を伝える。Mの婚約者が近くにいることを知ると、Wはその場を立ち去ってしまう。

 

 

MはWを探し回ってようやく見つけ出し(おそらく、かつて二人がピクニックをした公園)、二人は「これからどうしていくか」で言い合いになる。Wは、自分の口からMの婚約者にこの事を伝えると言い張るが、最終的にはMが直接、婚約者に伝えに行くこととなる。

 

(Mが婚約者にWの妊娠について伝えると、婚約者はMに怪我をさせるほど激しく取り乱し、婚約は破棄になる)

その後、Mは再びWの元を訪れ、事の顛末を伝える。

二人は再び「これから」について話し合う。

 

 

(この後、二人は再び付き合い始める)

 

 

(これ以降、短い会話で場面が切り替わり、どんどん時間が経過していく)

 

Wに陣痛が訪れる。

 

二人は病院へ向かう。

 

男の子が生まれる。

 

男の子は成長し、やがて親元を離れていく。

 

二人は結婚する。

 

二人は息子の成長を見守る。

 

(おそらくこの時点で二人はかなり歳を取っている)

 

Mが病気になり、手術を受けることになる。

(このシーンがMの最後の台詞)

 

(Mが先立つ。この後はWの独白のみ)

 

高齢になったWは、施設に入れられる。

WはMの眠る場所に献花に訪れ、Mに語りかける。

(このシーンがWの最後の台詞)

 

 

ここで物語は終わります。

最後のWの台詞は、何度読み返しても泣いてしまう。

 

 

 

 

 

 

考察

ここからは、戯曲「LUNGS」の考察をとりとめもなく書き連ねていきます。

 

会話(discourse)の多様性、流動性について

戯曲「LUNGS」は混じりっ気なしの「会話劇」。その始まりから終わりまで、WとMという二人の人間の言葉のラリーのみ、二人の「話す」という行為のみで構成されている訳ですが、「会話」と一言で言っても、さまざまな種類がある。

 

会話。対話。話し合い。おしゃべり。雑談。言い合い。議論。口論。喧嘩。独白。

 

「二人の個人の間に生じる言葉のやりとり」を意味するワードを思いつく限り列挙してみましたが、これらだけを比べてみても、それぞれのワードからイメージする当事者の感情やその場の状況は大きく異なることが見てとれます。

 

前述したあらすじの中で、私はおそらく「会話」「言い合い」「話し合い」「口論」辺りのワードを多用していたと思いますが、もちろんこれらは戯曲の中に明示されている訳ではありません。私が戯曲を読み進めながら頭に思い浮かべたWとMのやり取りを言葉で表現しようとした時、場面ごとに1番しっくりきたーー本当はもっと良い表現があるとは思うけど私のボキャブラリーの中では多分1番しっくりきているーー ワードを当てはめています。

また、ネット上にある映像資料の中で、実際に役者さんが台詞を言っている様子を見ることができた部分については、そちらの演技の雰囲気も参考にしながらあらすじを記載しています。

 

全体を通して、WとMは互いの感情を露わにしてーー時に乱暴な言葉を用いながらーー「言い合う」場面が多い印象です。

(英語にはスラングという日本語ではあまり馴染みの無い表現があり、特に若い世代の日常会話の中ではそれが普通に用いられています。台詞の中にスラングが頻繁に登場することも、私が戯曲からそのような印象を受けた理由の一つだと思います。)

万が一、億が一、仮にこの戯曲を、非っっっ常に雑な言葉で、作品への愛情やリスペクトなしに表現するとしたら、「カップルがずっと喧嘩してる話」と言ってしまうこともできなくはない。あまりにも無粋、野暮、ナンセンスだけど。

 

前置きでも書いた通り、マクミランの紡ぐ台詞は一言一言がリアルで生々しくて、時に鋭く、時には柔らかい言葉で、WとMの繊細な心情の変化を表現しています。一連の会話の中で、二人の感情や思考が刻一刻と変化をしながら、二人の生きる空間と時間を描いていきます。

 

ただの雑談だったはずが、いつの間にか口論になっていたり。激しく感情をぶつけあっていたかと思えば、次の瞬間には笑い合っていたり。

 

今二人は「話し合い」をしているんだな、ここでは「口論」になっているんだな、というように、会話の種類の違い、会話の種類が変化していく様子が自然と伝わってくるんです。

同じ「言葉のやりとり」でも、こんなに多様な姿を持ちうるのか、と思わず唸ってしまいます。

 

さらに言えば、同じ台詞でも役者の言い方一つで全く違う雰囲気を纏うことができるわけです。

戯曲を読んで受けた印象と、舞台を観て受ける印象を比べてみるのも面白いかもしれません。

 

会話は多様であり、流動的であり、生きている。

「LUNGS」という会話劇の大きな魅力の一つはここにあると思います。

 

それにしても、この作品、台詞の量が半端ない。

あとほんと早口(これは映像を観てしみじみ思った)。

演技力はもちろんのこと、役者としての"基礎体力"みたいなものがかなり試されそう。

 

 

WとMの対比

戯曲の中ではしばしば、WとMが対照的な存在として描かれています。

女と男。未来のドクターと売れないミュージシャン。喫煙者と非喫煙者

 

「子供を持つこと」に対する姿勢も、WとMでは対照的です。

物語の序盤、まだ“検討中“の段階では、Mが「子供を持つこと」にポジティブな考えを示す一方、Wはどちらかというと消極的です。

しかしいざWが妊娠したことが分かると、次はMがマイナス思考になっていきます。一方のWは、 妊娠が分かってからの方が前向きな言動が増えていきます。

 

全てにおいて"正反対"というわけではないけれど、決して"似たもの同士"ではない。

対照的な部分を備えた二人だからこそ、人間的な魅力に溢れた、見応えのあるカップル像を形成しているのだと思います。

 

Wについて

私は、この物語の主人公はWなんじゃないかと思っています。

 

物語の主題が「子供を持つべきかどうか」である点からも分かる様に、この物語で起こる大きな出来事の多くはWの身体に起こることです。

 

自身の身体に起こる様々な変化に直面するたびに、Wの心情は大きく揺れ動きます。

戸惑い、歓喜し、怒り、絶望し、時に心を閉ざす。

Wを演じる役者さんは特に、"鬼気迫る"演技が必要とされるのではないかと思います。どなたが演じるのか、本当に楽しみ。

 

Wが自身の心、身体、そしてMというパートナーとどう向き合い、どのような選択をしていくのか。ここを物語の軸として捉えるならば、すなわち「LUNGS」は「Wの物語」なのではないでしょうか。

 

 

ところで、日本版「LUNGS」では、恐らくMを演じるであろう神山智洋さんが主演を務める訳ですが、私はここに少しだけ違和感を感じています。

先ほどから書いているように、この物語を仮にどちらか一人のものだとするならば、私は絶対に「Wの物語」であると思うからです。

仮にどちらか一人を主役と呼ぶのなら、それはMよりはWなんじゃないか。そうでないとすれば、WとMは並列で(ただしWが先に)表記され、「ダブル主演」のような形がとられるのがベストではないか。

私が今回読んだ、出版され広く世間に公開されているバージョンの戯曲「LUNGS」は、2011年の初演から8年後の2019年、ロンドンのThe Old Vicで上演された作品の元となっているものです。このThe Old Vic版の上演をきっかけに「LUNGS」は大きな注目を浴びます。

The Old Vic版のキャストが記載されているマテリアルでは、基本的にWを演じる俳優(Claire Foy)、Mを演じる俳優(Matt Smith)の順で表記され、どちらかが主演であるという記載はありません。うん。この形が1番しっくりくる気がする。

自分の応援している人が主演を務めることは、もちろん嬉しい。だけど、Mが主役で、Wが脇役であるかの様にもし捉えられてしまうとしたら、それは少し、いやかなり、モヤモヤしてしまうかもしれません。

 

Mについて

Mは、戯曲を読む/観る人によってキャラクターの解釈が特に変わってくる存在かもしれません。ぱっと見は真面目で優しくて、正義感の強い人物のようにも思えますが、物語が進むにつれて「...ん?」とか「...は?」とか思うような言動が出てきます。

 

私は、Mという人物を語る上でキーワードとなるのはコンプレックス(劣等感)だと思っています。

 

ある夜、MがWの寝ている横で独白するシーン。戯曲全体の中でも特に多くの詩的・比喩的な表現が使われているこの場面の台詞は、MのWに対する劣等感のようなものを感じさせます。

Wは大学院の博士課程に進んでいる、いわゆる"高学歴"な女性です。一方Mは、安定した職に就かず、音楽活動をしてはいるものの、なかなか結果の出ないミュージシャン。

自分よりも社会的・経済的に高いステータスにいるWや、成功を収めている他のミュージシャンたち。それらの人々と自分を比べて、Mが劣等感を抱いている可能性は十分にあります。

 

別の場面、Wの妊娠が発覚し、それを聞いたWの母親が泣いていたことを知るM。

Mは「お腹の子の父親が僕じゃなければよかったのにと思ってるんだろう」と言って取り乱し、非常に乱暴な言葉をぶつけます。

物語の中でMがとりわけ感情を露わにするこのシーンからも、Mの抱える劣等感を窺い知ることができます。

 

Mのコンプレックスのようなものは、別の形でも表れています。

Wが、妊娠・出産への不安をMに話すシーン。Mは「代わってあげられなくて申し訳ない」と言い「(妊娠・出産に関して)自分たちは対等でないように感じる」と打ち明けます。

その後のいくつかの場面でも、 MはWの身体に起こる変化に対して「どうすればいいか分からない」「君が何を求めているのか分からない」といった趣旨の発言を何度もしています。

妊娠・出産という出来事に関して、一種の疎外感を感じているようにも受け取れます。

 

マクミランがどこまで意図しているかは分かりませんが、私はMの人物像の中に、男性性(Masculinity)の脆さが含まれているように感じます。

「子供を持つ」という出来事を通して、Mが葛藤し、打ちひしがれ、自身の無力、無知に直面する様子は、社会から期待される「男らしさ」とはかけ離れた、リアルな男性の苦悩を巧みに描いていると思います。

 

 

ここまで読んでくださった方、「この文章を書いている人はやけにMに対して当たりが強いな」と思われているかもしれません。ご心配なく。私にもその自覚はあります。

この点については「自分がWとM、どちらにより深く共感するか」が大きく関わってくると思います。私は女性の身体を持ち、性自認も女性なので、戯曲の中でもWの置かれている状況の方が想像しやすく、より「自分ごと」として捉えることができたのは事実です。

(戯曲を読んだ方の中で、MよりもWに共感した方であれば、私がなぜMに対して若干当たりが強いのか、おそらく分かってくださると思います。)

もっと言うと、そもそも人物像の解釈の時点で、女性であるWに自分を投影している、つまり無意識のうちに自分と似たキャラクターとして頭に思い描いている可能性もあります。

そういう意味では、WよりもMに共感した、という方の「LUNGS」の感想もぜひ聞いてみたいです。もしかすると、まるっきり違う物語として解釈しているかもしれない。

 

性と生殖(セックス・妊娠・出産)について

このテーマで4年ほど、英語圏で研究をしていたという背景もあり、戯曲の中で描かれる「性と生殖」については特に注目して読んでいました。いくつかのキーワードをピックアップして書いていきます。このパートだけ急に小難しい話が多いですがご容赦ください。

 

優生思想(Eugenics)

優生学」という学問があります。身体的、精神的に優れた者の遺伝子を保護し、劣った遺伝子を排除することで、より優れた子孫・人類を残すことを研究する学問のことで、これに基づく思想を「優生思想」と呼びます。定義だけ聞くとSFか何かの話のように感じるかもしれませんが「LUNGS」にはこのテーマが何回か登場します。

 

ある夜、WとMが「もしも自分たちの子供に"何か"あったら」という会話をするシーン。明言はされていませんが、ここではは胎児の先天的な障がいの可能性について議論していると考えられます。これも明言はされていませんが、二人はもしかすると「出生前検査(妊娠中の胎児の発育や異常の有無を調べる検査)」を受けようと考えているのかもしれません。

 

出生前検査の用いられ方については倫理的な観点からの議論が続いています。例えばお腹の子供が障がいを持って生まれてくる可能性が高いと分かったとき、それを理由に「産まない」という選択をしてもいいのか。それは優生学的な考え方なのではないか。

 

Mは会話の中で「"もしも"の場合に備えるべきだ」と言いますが、これは「(“もしも"の場合は)"産まない“選択肢もある」という意味にもとれる発言です。それにWは反発し「どんな姿で生まれてきたとしても、その子を愛する」と主張します。

 

別の場面でもMは優生学的な発言をしています。これについては後ほど書きます。

 

セックスにおける主体と客体

男女のセックスでは、男性が主体(積極的に行動を起こす側)であり、女性が客体(行動を受け入れる側)であるかのように描かれる、考えられることが多くあります。これは "sexual script (セクシャルスクリプト)"と呼ばれるもので、スクリプトは「台本」を意味する言葉です。

役者が台本の内容に従って自分の役を演じるように、人間(ここでは男女のカップルに限定)も日常の恋愛関係、性関係において「男性はこうするべき」「女性はこうするべき」といった“役割“ "台本(sexual script)" を意識的、または無意識的に演じているのだという考え方を "sexual script theory (セクシャルスクリプトセオリー)"と呼びます。

このセクシャルスクリプトは、人間がある社会、文化の一員として成長する中で、周囲の人との関わり合いや、見聞きする情報をもとに無意識に身につけていくものであり、特に「メディア」の影響が大きいと言われています。

世の中に溢れる、男女の恋愛・セックスの「ハウツー」的な情報の多くは、男性を主体、女性を客体として描いています。私たちがよく目にするフィクション(小説、漫画、ドラマ、映画など)でも、同様の描かれ方をしていることが多いのではないでしょうか。まさにこういった情報から、セクシャルスクリプトは形成されていきます。

 

前提の説明が長くなってしまいましたが、ここでWとMの話に戻ります。

二人が「子供を持とう」と行動を起こすシーン。先に進もうとするMに対してWが「ストップ」をかけ、Mはそのことに苛立ちを見せます。この時点でももう二人の立場は「主体」と「客体」に分かれていることがわかります。

 

セックスの直前になって怖気付き、先に進むことができないW。

Wは「子作りのための行為は神聖で美しく、特別なものでなければならない」と主張します。にも関わらず、行為中のMのWに対する態度は「まるで私を憎んでいるような、殺人鬼かポルノの中の男性みたい」であるとWは感じ、ある種の恐怖心から先に進めないのだと告白します。

 

生々しい会話が続くこの場面ですが、 私はWとMそれぞれのセックスに対するスタンスが表れているとても興味深いシーンだと思っています。

 

Wが表現する「行為中のM」は、まさに前述したセクシャルスクリプトに忠実で、積極的な(時に攻撃的とすら感じるほどの)態度を見せる男性のように思えます。

Wの告白に対して、Mは「(行為中)いかに自分がWに"集中"しているか」主張するわけですが、ここでの発言もMのセックスにおける「主体」としてのスタンス、積極性や攻撃性のようなものを滲ませています。

 

一方のWは、Mとの行為に「ストップ」をかけていることからも分かる様に、Mが「主体」として一方的に自分にアクションを起こすことに恐怖を感じ、「客体(=受け身)」になることを拒んでいます。つまりここでWは、セクシャルスクリプトに忠実な「男性が主体であり女性が客体である」セックスに抵抗しているのです。

ここで興味深いのは、Wが「普段の(=子作りを目的としない、コミュニケーションとしての)セックスであれば、それでも(=自分が受け身であっても)構わない」「むしろ普段のセックスでは、Mの積極的な態度を求めている」といった趣旨の発言をしていることです。つまり普段のセックスではWは自ら望んで、セクシャルスクリプトにおける「客体としての女性」の役割を演じているのです。

 

これらの発言から分かることは、Wが「子作りを目的としたセックス」と「それ以外のセックス」を“別物“として考えていることです。

子作りのためのセックスは神聖で美しく、特別な行為でなければならない。だからこそ、Mからの攻撃的なアクションを一方的に受け入れるのではなく「繋がり」を感じることができるようなセックスがしたい。

Wが「妊娠・出産のためのセックス」を特別視し、セックスにおける主体性を取り戻そうとするこのシーンは、とても印象的です。

 

 

家族・結婚・子育てについて

家族・結婚・子育てについても、ざまざまなテーマが戯曲の中で描かれています。

 

養子縁組

妊娠し、出産することだけが「子供をもつ」方法ではありません。養子を迎え入れることもできます。

「LUNGS」でも、WがMに「養子をもらうのはどうか」と提案するシーンがあります。しかしMはこれに反対します。

なぜMが養子をとりたくないのか、その理由は明言されていません。何となく抵抗感があるのかもしれませんし、もしかすると、親子の「血のつながり」を重要視しているのかもしれません。

 

余談ですが、この文章を書いている人間は現在進行形で「養子をもらうこと」を検討している(けれどもそれをパートナーとどう相談するか悩んでいる)こともあり、MがWの提案をバッサリ切り捨てる場面は読んでいて若干落ち込みました。

 

両親の話

WとMの会話にはしばしば二人の両親が登場します。

二人が「理想の親」「理想の子育て」について話し合う場面。WとMは度々、お互いの両親のことを「反面教師」のような存在として引き合いに出します。

別の場面でも、二人が自分たちの両親について語る様子からは、何かしらの確執やネガティブな過去があるようにも想像できますが、詳しいことは明言されていません。

(WとMの両親との関係性については、戯曲全体の中でも特に疑問が残ったポイントの一つです。あえて詳しいことが書かれていない可能性もありますし、ただただ私の読解力の限界だった可能性もあります。)

 

「こんな親になりたい」「こんな親にはなりたくない」「こんな子育てがしたい」とーー時折自分たちの親、子供時代と比べながらーー会話をする様子から、WとMが描く「家族の形」が少しずつ垣間見えます。

 

WとMが描く「家族のあり方」を通して、自分自身の「理想の家族像」のようなものも考えさせられる物語になっているので、家族やパートナーと一緒に観に行っても、新しい“気づき“があるかもしれません。

 

環境問題・人口問題・人の"善悪"について

「子供を持つべきか」という議論の中に、環境問題や人口問題といった地球規模の課題が登場するところも「LUNGS」の面白いポイントの一つです。WとMの会話には、特に西洋の先進国のミレニアル世代(orその下のZ世代)“あるある“だな、と感じるような話題、発言が多く見られます。

 

2000年代以降に成人を迎えた世代を「ミレニアル世代」と呼び、その下の1990年代中盤以降に生まれた世代を「Z世代」と呼びます。ミレニアル世代は生まれた時からコンピュータやインターネット技術が当たり前にあり、そうしたテクノロジーを日常生活で使いこなす、言わば「デジタルネイティブ」と呼ばれる世代です。金融危機、環境問題や格差の問題といった様々な社会課題が深刻化する中で育ってきたため、それまでの世代とは異なる価値観を持っているとも言われています。その下のZ世代は、物心ついた時からスマートフォンSNSが当たり前にある世代。デジタルネイティブ度はミレニアル世代よりもさらに高く、社会課題などに対してもより高い関心を持つ世代であると言われています。

 

WとMの会話を見て(読んで)いる限り、二人はミレニアル世代〜Z世代に入りかけ、くらいの世代なのではないかと推察します。環境問題などの社会課題に関心を持ち、SNSで関連する記事を読んでシェアしたり、それについてパートナーと話し合ったり、実際にリサイクルやサステナビリティに配慮した行動をしたり、できるだけ“正しい“生き方をしようとしています。

 

二人の社会課題への関心は「子供を持つべきか」という議論にも影響します。人口問題が深刻化する今の時代に、あえて「地球上に人間を“もう一人“増やす」ことにメリットはあるのか?子供を一人育てていくために排出される二酸化炭素の量は?そもそも自分たちの子供が大きくなる頃まで、この地球、この社会は無事に存続しているのだろうか?

「子供を持つこと」に関しても、“正しい“選択をしたいと考えるWとMですが、二人の考える“正しさ“には少し食い違いが見えます。

Wは子供を持つことは人口問題を悪化させるのだけなのではないか、と話す一方、Mは発展途上国の(考えなしに沢山の子どもを持つ)人々に問題があり、自分達のような(先進国の”優れた“)人々こそが子供を増やすべきだと主張します。

(前述した、Mの優生学的な考えがこの場面でも表れています。)

 

他の場面でも、二人は人間の“善悪"をテーマに語り合い「果たして自分たちは"善い"人間なのか」と自問します。

WとMが“正しく"あろうとすればするほど、二人の持つ「無自覚の特権(=先進国で生まれ育ち、何不自由ない生活を送ることができていること)」や、自分たちよりも"恵まれない“生活を送る“彼ら“に対する「無自覚の偏見」「無自覚の傲慢さ」のようなものが垣間見え、「果たして自分はどうなんだろう」と考えさせられます。

文化・言語・コミュニケーション、日本版「LUNGS」について

海外で生活した経験のある方や、海外ドラマをよく観る方は特にイメージが湧きやすいと思いますが、人と人のコミュニケーションのあり方は、国、文化、言語によって千差万別です。

 

WとMの会話を注意深く読んでいると、二人は常に二人ともが「話し手」であり、ほとんど「聞き手」としての役割を果たしていないことが分かります。相手の発言に相槌を打ったり、質問をして相手の話を膨らませたり、共感を見せる場面はほぼありません。

お互いがただひたすら「自分はこう思う」「あなたのここが分からない」「自分はこうしたい」「あなたはこうするべきだ」といったように、自分の考え、意見を述べ合っているのです。賛成も反対も、肯定も否定もしない。

 

この点は、戯曲「LUNGS」が英国を舞台に、英語という言語を用いて書かれていることも大きく影響していると思います。

英国を含む欧米諸国、いわゆる「西洋の先進国」の多くは"Individualism (個人主義)"的な価値観を強く持っていると言われています。“集団“よりも“個人“を重んじ、自立すること、独立することに価値を見出し、集団としての調和よりも、個人個人の権利、意思を尊重する考え方です。

一方で“個人“よりも“集団“を重んじる価値観を"Collectivism (集団主義/集産主義)“と言います。個人の権利や意思よりも、グループ(家族、職場、学校、社会など)としての調和を尊重する考え方です。日本はどちらかというと集団主義の価値観が強い文化を持っていると言われています。

 

個人主義の文化は言わば「はっきりものを言う」文化です。個人主義の色が濃い英国を舞台にした「LUNGS」が「はっきりものを言う」会話劇であることは納得の結果です。

 

一方の集団主義は言わば「遠回しにものを言う」文化です。言いづらい内容であれば特に、はっきり言葉で表現するのではなく、表情やジェスチャーから「察して」もらおう、といったコミュニケーション文化です。まさに日本的。グループとしての調和を大切にするため、「聞き手」が「話し手」に対する共感を示すような会話表現(相槌など)が多いことも、集団主義的コミュニケーションの特徴です。この辺りも戯曲「LUNGS」の会話劇とは対照的です。

 

個人主義的文化をベースにしている「LUNGS」と言う会話劇が、集団主義文化の日本を舞台に上演されるとどうなるのか、とても気になります。個人的には、英語の会話をそのまま日本語に訳して行うと、結構違和感があるような気もするし、それが逆にお芝居の良いアクセントになってくれるような気もする。

 

ちなみに「LUNGS」は韓国でも、日本より一足早く上演されています。韓国もどちらかと言うと、集団主義的な価値観の強いコミュニケーション文化を持っている印象なので、韓国版「LUNGS」はどんな作品だったのかも気になります。

 

 

文化や言語、コミュニケーションの違いがどのように"調理"されて、日本版「LUNGS」がどのような会話劇になるのか。今から本当に楽しみです。

 

まとめ

気づけば1万7千文字も書いてしまっていました。ここまでお付き合いくださった方(もしいらっしゃればですが)、ありがとうございました。

 

前置きでも書いた通り、戯曲「LUNGS」はどこかに実在するカップルのプライベートなやりとりを覗き見している感覚に陥るような、とてもリアルな会話劇です。

台詞一つ一つが生き生きとしていて、WとMの人間的な魅力に満ち溢れ、読む/見る側に様々なことを感じさせ、考えさせる作品だと思います。

 

この文章を読んで、より作品への興味が深まったり、実際に戯曲を手に取ろうと思っていただけたら嬉しく思いますし、戯曲を読んだ他の方の考察・感想もぜひ拝見したいので何卒(誰に向けて言っているのか分かりませんが)よろしくお願いします。 

 

結論:舞台「LUNGS」めちゃめちゃ楽しみ!!!!!!!

 

(小声で)最後にちょっとだけ、オタクの(ひどい)戯言

前置きでも書いた通り、この秋上演される舞台がどの程度戯曲の内容を踏襲するのかは分かりませんが、もしかすると

・恋人から何度も「お預け」をくらって不満気な自担
・恋人とのセックスについて赤裸々に(ある意味情熱的に?)話す自担
・JJ("事後の自担")
・恋人が妊娠検査薬を使う様子を見届けたがる自担(ここはかなりヤバいなって思った)
・感情的になって取り乱したり、泣き出したりする自担
・元カノにムラッと来ちゃう自担
・浮気して婚約者に滅多撃ちにされる自担

とかが見れるのかな、と思うと色んな意味で心臓が痛いです。神山担、強く生きよう。