舞台『東京輪舞』感想&考察

髙木雄也さんと清水くるみさんが出演する舞台『東京輪舞』の感想と考察です。

応援しているアイドルの出演舞台に関するブログを書くのはこれで2回目です。前回も二人芝居でした。わたしって二人芝居が好きみたい。

観劇前に読んだもの

アルトゥル・シュニッツラー『輪舞』

1900年にオーストリアの劇作家シュニッツラーが発表した戯曲です。私は1987年に岩波文庫から刊行された中村政雄訳本と、1997年に現代思潮新社から刊行された岩淵達治訳本の2バージョンを読みました。中村政雄訳版は昔の言葉で書かれていることもあり、話の内容は理解できたものの、登場人物の会話の情感はあまり掴めませんでした。その後岩淵達治訳版を読み、こちらは今の話し言葉に近い文体で書かれていることもあって、登場人物の心情や会話の空気感をより深く感じ取れたように思います。

10組の男女の情事の前後のやり取りが描かれていますが、情事の最中の描写は一切なく、その間を表す中断のト書きが入っています。当時のウィーンでは上演を巡って法廷論争が起こるほどセンセーショナルな内容だった、という前情報だけは入れていましたが、読んでみて個人的には「上演中止にするほどかな?」というのが率直な感想。確かに屋外での行為や不倫なんかが描かれてはいるけれど、普通にありそうじゃない?と。でもこれはきっと現代を生きている私が読むからそう思うのであって、当時のウィーン社会の価値観から考えると、とんでもない内容だったのでしょう。

デヴィッド・ヘアー『ブルールーム(The Blue Room)』

イングランドの劇作家ヘアーがシュニッツラーの『輪舞』を翻案し、1998年に発表した戯曲です。『輪舞』の大筋を残した形で、舞台となる時代・場所や登場人物の設定を当時の大都市(明記はされていないがロンドンやニューヨークを想起させる場所)に移しています。こちらは英語の原文で読みました。この作品には「A play in ten intimate acts」という副題がついています。この「Intimate act」という表現がなんだか良いな、と思っています。個人的には日本語に訳された『輪舞』よりも、英文で読んだ『ブルールーム』の方が読みやすく、内容や会話の空気感もすんなり入ってきました。20世紀初頭のウィーンよりも、1980、90年代のロンドンやニューヨークの方が文化的に身近に感じたからだと思います。

『ブルールーム』では行為中の中断を表すト書きに追加して、その情事の「所要時間」を表すテロップが投影される、というト書きがあります。「THREE MINUTES(3分)」「TWO HOURS TWENTY-EIGHT MINUTES(2時間28分)」といった形で。直接的な描写がなくてもそれがどんな情事だったか想像させることができる面白い演出ですし、『東京輪舞』にも、もしかするとここから着想を得たのかな、という演出が盛り込まれています。

現代の東京版『輪舞』

『ブルールーム』がかなり面白かったので、現代の東京を舞台にした『東京輪舞』はどんな作品になるんだろう!ととてもワクワクしていました。初日に観劇してまず思ったのは「脚本が上手すぎる」ということ。原作をそのまま現代の東京に置き換えて日本語化しているわけでは全くなく、ポイントとなるキャラクター設定、会話の構成やエッセンスなどをうまく踏襲しながら、オリジナルの要素や設定をふんだんに盛り込んでいます。

そして、各登場人物の描かれ方にものすごく深みがある。オムニバス形式なので各人物の登場時間は限られているなかで、発する言葉や行動から、その人の性格、価値観、バックグラウンドみたいなものをとても濃く感じることができます。

髙木くんが8役、くるみさんが6役を演じているんですが、お二人の芝居もとにかくすごい。役が変わるたびに、佇まいも、声も話し方も、顔つきまでも別人のようになって出てくるので、同じ人が演じているということを忘れてしまいそうになることもしばしば。

音楽や美術も現代的でスタイリッシュで、作品の世界観を見事に作り上げています。各景の間の転換の様子、その中で登場人物が着替えて次の相手との場面に移っていく様子も作品の一部として見せる演出もとてもユニークで、それを表現するステージパフォーマーの方々も素晴らしく、見るたびに新しい発見や面白さがあります。

各景のあらすじ・感想・考察

第一景「十代と配達員」

「十代」サノ マカナ。18歳。

「配達員」カイト。デリバリーアプリの配達員。

場面:「新宿、冬

『輪舞』では娼婦と兵卒、『ブルールーム』では女の子(Girl)とタクシードライバー(Cab Driver)の話として描かれている第一景。両作品とも若い女性が通りがかった男性に声をかけるところから始まります。女性が男性に誘いをかけ、屋外で人目を盗んでセックスをする。その「代金」を求める女性を置いて、男性は逃げるように去っていく、という構成も3作品で共通しています。

この景は比較的短めではありますが、作品全体のイントロダクションとして、舞台となる「現代の東京」という場所の一面を分かりやすく表していると思います。

10人の登場人物の関係性をリレー形式で描いていく、その起点となるのがマカナです。生活に困窮しており、新宿の街で偶然出会った誰かとセックスをして、その対価を得る。

この景の中では明らかにされていませんが、この先の話を見ていくとマナカが所謂「身体を売る」生活を始めたのは、このカイトとの出会いがあった頃であったことが推察できます。その一人目がカイトだったのか、別の誰かだったのかは分かりませんが、少なくともマカナがこの頃、そうした生活を始めなければならないほど「必死」な状況であったことは確かです。作中にはこんな台詞も。

「必死だよ!明日も生きていられる保証なんてないんだから」

『東京輪舞』は全体を通して、若干の例外はありつつ、物語が進んでいくにつれて登場する人物の「社会的階層」が上がっていくような構成になっています。これは『輪舞』『ブルールーム』でも同様です。その一番最初に登場するマカナは、東京という街で誰もが陥る可能性のある「貧困と孤独」を象徴する存在にも思えます。

街中にあるトイレで「サクッと」しよう、と誘うマカナに「ケモノじゃん」と返すカイトですが、最終的にはマカナの誘いに応じます。カイトがマカナにキスをすると「これでお兄さんもケモノだ」と言うマカナ。彼女はお金と欲望のためだけではなく、孤独を埋めたくて誰かとの出会いを求めていたのかもしれません。

情事のタイトルは「交尾する」。「ケモノ」になった二人、を表現しているのでしょうか。

第二景「配達員と家事代行」

「配達員」カイト

「家事代行」ジャスミン。25歳。フィリピン出身。日本で家事代行の仕事をしている。

場面:「渋谷、春

『輪舞』では女中、『ブルールーム』ではオペア(Au Pair)として描かれている三人目の登場人物。オペアとは海外のホームステイ先に無償で住ませてもらう代わりに、その家の家事や子供の保育をする人のことを言います。日本では聞き馴染みのない制度だし、『東京輪舞』ではどう置き換えるんだろう?と気になっていたので「家事代行」だと分かった時は「なるほど!」と思いました。原作の構成を踏襲した上で、現代の東京でも全く違和感のないキャラクター設定になっています。

渋谷のクラブで出会う2人。カイトがジャスミンをナンパして、そのまま2人はラブホテルへ行きます。

この作品は構成上、基本的に全ての登場人物が2つの連続する場面でそれぞれ別の相手と関係する形になっています。シュニッツラーが『輪舞』を書いた当時のオーストリアの道徳観に鑑みると非常にセンセーショナルな描写だったのでしょう。しかし現代の東京に舞台を移すと、こういうことも普通にあり得るよね、と感じる内容にも思えます。作品の背景にある性や恋愛の価値観について考えながら見るのもおもしろいです。

ラブホテルでの情事のタイトルは「セックスをする」。その少し前のクラブでの場面では「セックスをする?」というテロップが出ます。情事の前後を描く作品というだけあって、事に及ぶまでの2人の駆け引きや、事後の会話も非常にリアル。

各景の間の場面転換で毎回違う音楽が流れるんですが、二景と三景の間の音楽が私のお気に入りです。カイトの置いていった指輪をまじまじと見つめているジャスミンの、ささやかな恋の気持ちを表現しているような高揚感のあるメロディーが素敵。(だからこそ余計にこの後の場面がつらくなるわけですが...)

第三景「家事代行と息子」

「家事代行」ジャスミン

「息子」マサ。大学院生。22歳。

場面:「成城、夏

『輪舞』では女中と若様、『ブルールーム』ではオペア(Au Pair)と学生(Student)として描かれている3景。裕福な家の息子と、その家で仕事に従事する女性、という関係性は三作品に共通しています。

個人的には、この景の話がいちばんつらいというか、見ていて胃がキリキリしてしまいます。

マサの住む家で家事代行の仕事をしているジャスミン。休憩中にマサが帰宅し、ジャスミンにマッサージをしてほしいと頼みます。マッサージ中、突然「エッチしてみない?」と誘うマサ。それを拒むジャスミンに対して、マサはジャスミンの「ある秘密」を知っている、と話し、2人は最終的に事に及びます。

この景ではセックスにおける「力関係」が如実に描かれています。マサはジャスミンを「雇う」側(正確には雇っているのはマサの親だけど)であり、ジャスミンは「雇われる」側の存在。その時点でまず圧倒的な上下関係が生まれています。その上マサは、ジャスミンが誰にも知られたくない「秘密」を知っている。言葉の上ではマサが誘っている形になっているけれど、ジャスミンにとってこれは「断れない」「応じざるを得ない」状況なのです。作品の本筋からは離れてしまいますがこの場を借りて一つだけ言わせて欲しい。立場の強さ/弱さを利用して相手が望まない行為を強いるのって、暴力だからね。お芝居はフィクションだけれど、現実世界では絶対にしてはいけない事です。でも実際には、こういうことって、現実でも起こり得るし、たぶん起きている。3景は正直見ていてつらいですが、問題提起として、反面教師としては描く必要のある話だと思います。見ている側の心がヒリヒリしてしまうような、2人の間の張り詰めた空気感のあるお芝居が素晴らしいです。

情事のタイトルは「手でする される」「口でする される」。作品の中でもいちばん生々しい表現が使われているのが、なんともしんどい。

第四景「息子と作家」

「息子」マサ

「作家」ショウジ サヨ。27歳。作家。エッセイスト。

場面:「数十分後

『輪舞』『ブルールーム』では、この場面に登場する女性は「若い人妻(Married Woman)」として描かれており、おそらくどちらも仕事はしていません。しかし『東京輪舞』のサヨは原作とは異なり、人気作家という職業も教養もステータスもある女性として描かれています。『輪舞』の舞台となった時代と比較して女性の社会進出が進んでいる現代の東京らしい設定になっています。

マサの通う大学院のゼミの講師としてサヨが登壇し、出会った2人。その後恋愛関係になり、マサはサヨを自宅へ誘います。場面のテロップに出る通り、これは第三景のジャスミンとマサの出来事があった数十分後のこと。第三景の2人の情事中に鳴ったインターホンは、おそらく約束していた時間よりも早く来たサヨによるもの。それでマサはあれだけ慌てていたのでしょう。

つまりマサはこの後サヨが家にやってきて、セックスする可能性もある(というかその下心で誘ってるに決まってるよね)と分かっている状態で、ジャスミンにあんなことをしたわけです。サイテー!ここで観客(というか私)の中でのマサの好感度がさらに下がります。

3景とは打って変わって、この景では女性であるサヨが関係性の主導権を握っています。セックスのリードをするのもサヨ。くるみさんがインタビューの中で「女性のお客様も誘惑できるように、好感が持てる色気にしたい」とおっしゃっていましたが、その言葉の通り、見ている方がドキドキしてしまうような挑発的で色っぽい女性になっています。

場面としても、この景がいちばん「リアルとエロス」のエロスの要素を感じられる気がします。あけすけな会話がいちばん多いのもこの景かな。

途中のサヨの台詞が印象に残っています。

「そしたら私は絶対にさみしくなって(中略)振り回されて、泣かされて、まるでなんか、自分が主体性を持っていない女であるかのような気持ちにさせられて、つまらない、すごくすごくつまらない、自分でもそのつまらなさに蓋をして、見なかったことにして、また誰かに依存して、つまらなさを上塗りして、傷つけて、傷つけられて、またただ終わる」

自立した女性であり、自分に自信を持っているであろうサヨが、恋をして誰かに執着してまうこと、それによって女性としての主体性を失ってしまうことを恐れていることが感じられて、確かに、そんな気持ちになること、なったことがあるかも、と共感してしまう台詞です。

第四景を通して、マサは盲目的にサヨに恋しているようにも見えますが、サヨが帰った後の「独り言」を聞くと少し見え方が変わってきます。

「あの"ショウジ サヨ"だぞ...!」

この終わり方は原作と似ていて、『輪舞』では若様の「これで僕は上流の人妻と関係を持ったんだ」、そして『ブルールーム』では学生の「I'm fucking a married woman (意訳:人妻をモノにしたぜ)」と言う独り言で終わります。

おそらくこの三作品に登場する若い男たちの動機は共通しています。それは「本来自分の手の届かないような女性と関係を持つこと」。もちろん恋心があったうえで、ですが、マサの気持ちの根底には自分よりも社会的地位の高い(その上人妻でもある)サヨと関係を持っている、という男としての「勲章」が欲しい、そんな野心めいたものが隠れているようにも思えます。

第五景「作家と夫」

「作家」ショウジ サヨ

「夫」ヤマナカ タツヒコ(たっちゃん)。サヨの夫。建築家。

場面:「三鷹、秋

『輪舞』では若い人妻と夫、『ブルールーム』では政治家(Politician)と人妻(Married Woman)の話となっている5景。この二作品の中では夫婦の間に子供がいますが『東京輪舞』のサヨとタツヒコの間には子供がいない、という点が大きな違いになっています。子供を持たず、ぞれぞれ自分のキャリアに専念する夫婦、という設定も現代の東京らしさを感じます。

仕事の手が進まず「サヨに会いたくなった」と言って寝室にやってくるタツヒコ。シャンパンを飲みながら、2人は自分たちの関係性や、愛と性欲について、将来についてなど様々な話をします。台詞量の多い作品ですが、この景は特に、ずーーーっと喋ってる。しかもサヨもタツヒコも、使う言葉がなんだか高尚なんですよね。学歴も、教養も、キャリアもあるんだろうなというのが言葉のチョイスからも伝わってくる。サヨがタツヒコを論破しているシーンを見ると、さすが「言葉」を仕事にしている作家だな、と思います。

「愛と性欲」について話す中で、タツヒコは「身体を売っている人たち」について言及します。貧しい家庭に生まれて、親から十分な愛を受けられなかった子供は、それを代理の存在に求めたり、性欲が歪んでしまう、と。そういう経済的な貧困や道徳的な貧困が、彼らをそういう「ひどい仕事」に就かせる、と。見ている側としては、どことなく1景のマカナの存在を思い出す発言です。それに対してサヨは「身体を売っていても立派な仕事だと思う」と反論し、タツヒコは自分の発言が職業差別的だったと認めて謝罪します。こうした会話を真剣にしているところも、この夫婦のキャラクター、価値観を表しているように思います。

私が特に好きなのは、タツヒコがサヨに謝った後のシーン:

タツヒコ(両手を挙げて)「殺して?」

サヨ「バーン」(拳銃を撃つジェスチャー

差別的な発言をしてしまったことへの「罰」として撃たれる、という冗談めかしたシーン。もしかすると二人の間のお決まりのやり取りなのかな、と思っています。おそらくタツヒコの不用意な言動ををサヨが指摘するのはよくあることで、その度にタツヒコが非を認めて、反省の証として「バーン」と撃たれる。「間違いを指摘する/される」という気詰まりなコミュニケーションを、少しでもポジティブに終わらせるための工夫みたいな。

このやり取りもそうですが、サヨとタツヒコの会話はその話し方からも2人が夫婦であることが感じられるのが良いな、と思います。それぞれが登場するもう一つの景と比較した時、5景には生活を共にしている、気を許した相手との会話のリズム感みたいなものがある。この辺りを繊細に表現している脚本がすごいし、それを見事に演じている俳優お2人もすごい。

5景では「子供を持つこと」に関するサヨの台詞が印象に残っています。

「私は全エネルギー使っちゃう気がするんだよね。子供に。使っちゃうと思う。でも、そうなったとき私は、私が本来なりたかった作家になれてるのかな。母親になってしまう私を、作家の私は許せるのかな」

出産・育児と仕事を両立できるのか、それともどちらかを選ぶしかないのか。現代の女性の多くが共感できるであろう葛藤が表現されているように思います。一方のタツヒコが「そうなったら、そうすれば良いと思うよ」「今はまだ分かんないけど」とどこか他人事のような反応である点にも、男女間の感覚の差が感じられる場面です。

この景でもう一つ好きなところは、性的同意がきちんと描かれているところです。

サヨ「ねえ、しようよ」

タツヒコ「うん、しよう。したいと思ってた」

サヨ「思ってたと思ってた」

情事に付けられたタイトルは「愛する」。全十景のなかでこの二人にこの動詞が当てはめられたことの意味について考えたくなります。

第六景「夫とクィア

「夫」ヤマナカ タツヒコ

クィアワタヌキ マキ。コンテンポラリーダンサー。

場面:「品川、冬

『輪舞』ではかわい娘ちゃん、『ブルールーム』ではモデル(Model)として描かれている7人目の人物は『東京輪舞』ではコンテンポラリーダンサーという設定で登場します。

タツヒコが偶然マキのダンスを見たことをきっかけに知り合った2人は、ホテルのスイートルームでドラッグに興じます。

『東京輪舞』全体の構成として、第五景まではいわゆる「ヘテロセクシャル」な関係性を描いていましたが、第六景からそれが変わり始めます。ここからどんどん原作と異なる要素が広がっていきます。そのきっかけとなるのがマキという人物です。

マキは一見すると女性のように見える格好をしていますが、会話を通して規範的な性自認性的指向にとらわれないクィア(おそらく身体的性は男)であることが明らかになります。そんなマキと出会い、関係を持ったことで、自身もヘテロセクシャル男性ではなく「クエスチョニング」なのではないかと気づいたタツヒコ。ではこの景は性的マイノリティ同士の関係性を描いているのかというと、そうとは言い切れないような気がしています。

タツヒコはこれまでシスジェンダーヘテロセクシャルな男性であることに何の疑問も持たずに生きてこれた人。女性のパートナーと法的な婚姻関係を持ち、建築家として社会的なステータスも十分にあります。一方のマキは、おそらくずっと前からクィアとして生きてきて、それによって奇異な目で見られたり、心無い言動で傷つけられたこともあったはず。

タツヒコの発言にも、マキをどこかで「奇異な存在」として見ているようなニュアンスが滲んでいます。それをマキは敏感に感じ取っている。だから一緒にクスリをやってハイになってはいるものの、マキはタツヒコに対してどこか冷めたような態度に戻る瞬間が何度かあります。「ああ、この人もか」と思っているような。

 

最後のやり取りは、ちょっと皮肉が効いている。

タツヒコ「もう無理?もう嫌だ?」

マキ「その質問にはさ... "行動"で返すしかないよ」

タツヒコ「"言葉"じゃないってこと?」

マキ「そう」

言葉を仕事道具にし、言葉を尽くしてコミュニケーションを取るサヨの存在に対する含みを感じる台詞です。

情事のタイトルは「性交する」。五景のサヨとタツヒコの情事が愛のためのものだったとするのなら、タツヒコとマキの情事は刺激と快楽のためのもの。

足元をふらつかせながら一緒にベッドへ向かう2人。マキが「このまま踊ろうよ」と言い、2人でワルツのようなステップを踏みながら消えていくシーンで第一幕が終わります。作品のタイトルにも入っている「輪舞」を想起させる粋な演出ですね。

第七景「クィアインフルエンサー

クィアワタヌキ マキ

インフルエンサーオトナ(音菜)。「ちゃむ」という名前で活動している歌い手。

場面:「八王子、クリスマス

初日に観劇してからずっと、全十景の中でこの景が私はいちばん好きです。

マッチングアプリで出会った2人。クリスマスの日、オトナの配信部屋へマキが訪れます。自分のことを知らないと話すマキに驚くオトナ。そこからちょっとしたケンカのようなやり取りもありつつ、お互いの表現を通して2人は理解し合っていきます。

物語の序盤、オトナがマキに勝手に抱きついて「はいダメ、はいダメ、アウトー」と言われ、慌てて謝るシーンがあります。もしかすると2人の間には、同意を得ずに相手の身体に触れない、というお互いの「バウンダリー(境界線)」を尊重するための約束事のようなものが事前にあったのではないかな、と思っています。

その後「する?」「しよっか」と言って服を脱ぐ2人。けれどそこで2人は最終的に「セックスをしない」という選択をします。

「わたしたち、しない方がいいね。うん。違う。違うと思ってたけど、似過ぎてる。わたしたちは。だから、する意味がない。セックスって、違うからするんだね」

「セックスをしない」ということも一つの情事として描いているところが、私はとても好きです。この次の景でオトナはマキのことを、恋人ではないけれど「大切な人」と言っています。恋愛じゃなくても、しなくても、「大切な人」と呼べる関係性になれることをこのシーンは伝えているのかなと思っています。

最後に「ハッピーホリデイズ」と言い合ってハグをする2人。このハグも、決して強く抱きしめ合うようなものではなくて、そっと相手の身体に触れるような優しさが滲み出ていて、観るたびに泣きそうになってしまいます。

脱いだ服を着直すタイミングで役が入れ替わる、という演出は、初日に見た時に鳥肌が立ちました。この仕掛けがこれ以降の場面にも作用してきます。考えた人、天才すぎる。

第八景「インフルエンサーと俳優」

インフルエンサーオトナ/オト

「俳優」フクモト ジン。俳優。

場面:「東京の近く、1月」(『東京輪舞』だから、あえて地名を明言せずに東京から見た「近く」と表現しているのかな)

『輪舞』では男性の詩人と女優、『ブルールーム』では男性の劇作家(Playwright)と女優(Actress)を描いている八景。『東京輪舞』では前段で「役を入れ替える」という仕掛けがあったことにより、原作では女優だった人物が俳優として描かれています。

ジンが主役を演じる『マクベス』の地方公演終わり。公演を観にきていたオトはジンの泊まるホテルの部屋へ行きたいと言い、2人の逢引きが始まります。

オトもジンも性自認は男性。オトの性的指向は明言されていませんが、男性が恋愛対象に含まれているのは確か。一方のジンは、自身が「ポリアモリー」であると認識しています。ポリアモリーは「複数愛」とも訳され、パートナーの合意の上で複数の人と恋愛関係を持つ人のことを指します。(この「合意の上で」がポイントだと後々分かります。)

俳優であるジンは、自身がポリアモリーであることを世間に公表していません。奥さんのいる身でありながら、他の人とも付き合っている(しかもそれがフォロワー100万越えの有名配信者)なんて知られたら「俺のファンは減るだろうな」と言っています。まだまだ社会にはポリアモリーという言葉・考え方を知らない人も多い現在。自分のアイデンティティを受け入れてもらえないかもしれない、というジンの苦悩が、こういった台詞からも感じられます。

ジンという人のアイデンティティを表すもう一つの要素が「信仰」です。ジンの左腕には、聖母マリアと思われる肖像のタトゥーが彫られており、何かを誓うとき、ジンはそのタトゥーに触れる仕草をします。作中にはお祈りをしているシーンもあります。「日本人は無宗教」という意見もある中で、信仰や祈りを日常の一部として描いている点に私は好感を持っています。

情事のタイトルは「関係を持つ」。この景のこの2人だけを切り取って見ていると、お互いへの「好き」の気持ちが純粋に伝わってくる、甘酸っぱい恋愛模様のようにも見えます。世間には知られてはいけない、内緒の恋。でもジンにはそれを「伝えなければならない人」がいる。そういった2人を取り巻く状況を俯瞰してみると、この景もなんだか切なく感じます。

第九景「俳優と社長」

「俳優」フクモト ジン

「社長」ショウコ。ジンの妻であり、ジンの所属する会社の社長。

場面:「数日後

『輪舞』では女優と伯爵、『ブルールーム』では女優(Actress)と貴族(Aristrocrat)が登場する9景。『東京輪舞』では性別が原作と入れ替わっており、男性の俳優と女性の社長のやり取りを描いています。もう一点、原作と大きく異なるのは、2人が夫婦であり、子供がいるということ。

1景のパートでも触れましたが、この作品は物語が進んでいくにつれて登場する人物の「社会的階層」が上がっていくような構成になっています。10人の主要な登場人物の中で最後に登場するのがショウコ。社長という肩書きが経済的にも社会的にもステータスのある存在であることを示しています。そんな役柄を男性ではなく女性として描いているところも印象的です。

マクベス千穐楽公演の翌朝。接待帰りで二日酔いのショウコがジンのもとを訪れます。

ショウコはどうやら、酔っ払うと記憶を無くしたり、謎のキャラクターが入ってしまうタイプ。この場面でも「奥様と使用人」という謎の設定で寝起きのジンを困らせます。一見コミカルな序盤のやり取りですが、私にはショウコが強がって道化を演じている部分があるようにも感じられます。妻として、それ以上にビジネスパートナーとして、人気俳優であるジンを支えていかなければならない。そんな強い女性でいなければならない自分を守るための鎧として、あんな風におどけた態度をとったりしているのかな、と。

ポリアモリーであるジンは、好きな人ができた時はそれをショウコに伝える、という約束をしています。あくまでも、パートナーの合意の上で複数の人と恋愛をする、という考え方だからです。

「好きな人ができた」と打ち明けるジンに対して、ショウコは感情を爆発させます。息子にはどう伝えるのか、もしも世間に公表したとき、ジンに関わる多くの人に影響が及ぶことを考えているのか、と。そしてこう言います。

「私はモノガミーなの。分からないの、ジンくんの感覚が。でも分かろうとしてるから...分かろうとしてることだけは分かって」

分からない、でも一緒に生きていくために、分かりたい。ショウコの悲痛な思いと、ジンの抱える苦悩の両方が伝わってきて胸が苦しくなります。

終盤、ジンがショウコをぎゅっと抱きしめた状態での2人の会話にも心を揺さぶられます。

「きっと日本中にキモがられる」「うん」

「差別もされる」「うん」

「迫害もされる」「うん」

「もしかしたら殺されるかも」「...うん」

「それでも私のこと大事にできるの?」「そう誓った」

「自分のことも大事にできる?」「うん」

「ユウトのことも?」「うん」

「"その人"のことも?」「うん」

声を震わせながら「”その人”」と言うショウコの気持ちを思うと見ているほうも泣けてくる。

情事のタイトルは「一緒に寝る」。窓から差し込む陽の光に照らされたラストの2人の姿が、本当に切なくて、でも本当に綺麗。

第十景「社長と十代」

「社長」ショウコ

「十代」サノ マカナ。19歳

場面:「新宿、春

10人目の人物が、最後に1人目で出てきた人物と関係して「輪」が成立する、と言うことは原作を読んで想像していた初日。7景で役が入れ替わったことでくるみさんが10人目のショウコを演じる形になった時に「あれ、これ次に出てくるマカナはどうなるの?」と1人で混乱していたところで10景が始まって「やられた...」と思いました。1人5役から増えたのはこういうことか、と。

目が覚めると何故かマカナの自宅で一緒に布団に入っているショウコ。酔った勢いでマカナと寝てしまったことに気づき、お金を置いて帰ろうとしたショウコをマカナが引き留め、2人の会話が続きます。

個人的に、10景は自分の中のアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)に気付かされる場面でした。おそらく20以上は年の離れているであろう女性同士がワンナイトの性的関係になる、というのが、どうしても想像できなかったのです。「わたし、あなたと寝たの?」「寝たよ」という会話がなければ、まあ酔っ払って泊めてもらっただけだろう、と当然の如く思ってしまっていたと思います。ここで私が自分に対してショックだったのは、この2人が女性ではなく男性だったら、もっとすんなりこの展開を受け入れていただろう、ということです。私の中には、男性同士の性愛と女性同士の性愛は異なる、という無意識の思い込みがあったんだ、と。

会話の中で、ショウコは終始マカナのことを心配していることが分かります。「嫌じゃなかった?わたしで」「いつからこうやってお金稼いでいるの?」「こんなやり方じゃなくても、絶対に幸せになれるよ、あなたみたいな人は」。名刺を渡した時も「何かあったら電話して。助けが必要な時とか」と言うショウコ。マカナの孤独や苦しさを感じる1景から始まった物語で、最後にこうして彼女を気遣い、手を差し伸べようとする大人の存在が描かれていることに、私は少し救いを感じています。(かくいうショウコもマカナのことを買ってしまってはいるのであれですが...)

去り際のショウコに「私のどこが好き?」と聞くマカナ。カイトと出会ったあの冬から1年とちょっとの間、彼女はずっと、人から肯定され、必要とされること望んで生きてきたのかもしれません。

カイトが「じゃあね、”ご褒美”さん」と言ってマカナのもとを去る1景から始まった物語。最後はショウコが「ありがとう、”贈り物”さん」とマカナに伝えて帰っていく10景で締め括られる、その構成がとても美しいです。年齢も生きる世界も全く違う2人が、巡り巡って出会うことになる様はまさに「輪舞」のようです。

最後のシーンについて

第十景の最後に11人目の登場人物が出てくるのは『輪舞』『ブルールーム』にはなかった『東京輪舞』オリジナルのエンディングです。マカナの家を出たショウコが、工事現場の作業員と短いやり取りをし、そのまま2人は離れていく... という場面でこの作品は終わります。

原作にはないこのシーンと11人目の人物が追加された意味については、ずっと解釈が難しいなと思っていました。何回か観る中で少しずつ自分なりの考えがまとまってきたので記しておきます。

第十景はショウコとマカナの物語だったので、これまでのリレー形式の流れのままいけば、この次の第十一景がもしあるとするならば、それは再びマカナ(と誰か)の物語に戻ってきてしまいます。「輪」のようにつながる「輪舞」としてはもちろんそれでも良いのかもしれない。けれどそこに11人目の人物を登場させることによって、ここからまた別の「輪」ができて、新しい「輪舞」が始まる、そんな可能性をこのシーンは示しているのかなと思っています。

第十景に、マカナのこんな台詞があります。

「その時、たまたま、そこにいる、その人と、好きなように生きていく」

この言葉を聞いたショウコが、その後の何気ない誰かとの出会いに、何かを思いながら、日常に戻っていく。東京という街で。その先の未来につながる希望を感じさせるエンディングだと感じています。

男女二元論とヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範)

『東京輪舞』が『輪舞』や『ブルールーム』と異なる重要な点は、様々なジェンダー性的指向の人物が登場することです。演出の杉原さんがインタビューやパンフレットでお話しされていた「男女二元論の話にはしたくない」という思いがしっかりと反映されていることが分かります。男女二元論は読んで字の如く、人間は男か女のいずれかに分類される、という考え方です。加えて、この作品はヘテロノーマティヴィティ(Heteronormativity・異性愛規範)にも疑問を投げかける内容になっています。ヘテロノーマティヴィティとは、異性愛を「普通」で「自然」なものとし、同性愛などそれ以外の性的指向を「特殊」で「不自然」なものとする考え方のことです。多様な性のあり方については徐々に理解が広がっているとはいえ、依然として私たちが目にする多くのメディアで描かれているのは男と女という異性間の恋愛やセックスです。

だからこそ『東京輪舞』が男女二元論、異性愛規範にとらわれない性のあり方を描いていることには、非常に重要な意味があると思います。『輪舞』の時代のオーストリアにも『ブルールーム』の時代のイングランドにも、様々なセクシュアリティの人々がいたはずです。でも描かれなかった。もしかすると描けなかったのかもしれない。そんな人々の存在が、現代の東京に舞台を移したこの作品で可視化されていることは、社会が少しずつではあるけれど、多様な性のあり方、生き方を尊重しようという方向に向かっている、そんな希望であるようにも思うのです。

また、性愛・恋愛だけが人間同士の深い結びつきではない、というメッセージもこの作品からは受け取ることができます。登場する2人の間に性的な出来事があったのかどうか明確にされていない景もありますし、はっきりと「セックスをしない」という選択をして、恋愛ではない特別な関係性を築いている人たちも描かれています。色々な生き方、選択を肯定する作品になっているところがとても好きです。

リンクする物語

10組のペアの、それぞれ場所も時間軸も異なる物語の中にリンクする要素があるのも、この作品の魅力の一つです。9景のジンとショウコの会話の中で、5景のサヨとタツヒコの「その後」のことが分かったり、10景のマカナと2景のジャスミンの繋がりだったり。複数の場面で繰り返し出てくるキーワード・モチーフのようなものもあります。一つ目は「純粋」。5景で「純粋さ」について話すサヨとタツヒコ。9景に出てくる百合の花言葉は「純粋」。そして10景でマカナの「とても純粋なところ」が好き、と伝えるショウコ。もう一つが「宇宙」。異常気象の地球から宇宙へ乗り換えるしかないとマサが話す3景。天文学的な愛について語る4景のマサとサヨ。そしていろんな意味で宇宙に行ってしまっている?宇宙になっている?6景のタツヒコとマキ。そういった別々の場面に散りばめられた要素を見つけるのも、オムニバス形式の作品ならではの楽しみ方だと思います。

まとめ

「リアルとエロス」というテーマを掲げている『東京輪舞』。しかし実際に見てみると、エロスというよりももっと普遍的な「人と人との関係性」を描いているように思います。性別、ジェンダー性的指向、国籍、職業、世代など異なるアイデンティティを持つ10人の登場人物。それぞれが何かしらの「生きづらさ」を抱えながら、誰かを愛したり、求めたり、大切に思ったり、恋したりしながら、生きている。見ている方も、自分の体験を重ねたり、「誰か」を思い出したり、場合によっては「全く共感できないな」と思ったりしながら、最後にはきっと誰かと話したくなる、そんな作品だと思います。本当に見て良かった。この作品が好き。それに尽きる。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。『東京輪舞』について話したいけど相手がいない、という私のような方がもしいれば、この文章が少しでも話し相手代わりになれば嬉しいです。

「あのシーンのあの髙木くんが好き...」といった煩悩まみれの感想はSNSで書いてますのでそちらは見ないでください...